
みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は「親切」について考えてみようと思います。
みなさんは普段、人に親切にしていますか。
また、人から親切にされる場面はあるでしょうか。
私はなるべく親切な人でありたいと思っているんですが、ふと立ち止まると、この「親切」というのが自分のためなのか、それとも人のためなのかよくわからなくなることがあって。
今回はその部分を少し掘り下げてみます。
親切にしようとして、ためらう

親切というと、「人に優しくすること」というイメージがあります。
わかりやすい例でいうと、ゴミの日の朝に、近所のお年を召した方がゴミ捨て場に向かっているのを見て「もしよかったらついでに持っていきましょうか」と声をかける。これも親切ですよね。
ただ、自分の内面に返ってみると、毎回けっこう葛藤があります。
あんまり関わりのない人に急に声をかけたら怖いかな、とか。
自分でできるのに余計なお世話だと思われないかな、とか。
席を譲る場面でも「まだそんな年じゃない」と思われてしまったらどうしようと考えてしまって、結局声をかけないまま通り過ぎてしまうことがあります。
「このためらいって何なんだろう」と改めて考えてみたんです。
ためらいの正体

本心からいいことだと思えていれば、ためらいは要らないはずなんですよね。
その人のためになるからやった方がいい、という感覚があれば自然と動けるはずで。
でも「実際はためらう」ということは、どこかに別の感情が混ざっているんじゃないかと思ったんです。
いろいろ考えた末に気づいたのが、「善意を押しつけようとしていないか」ということでした。
助けてあげたいという気持ちの中に、「やってあげますよ」という感覚が、わずかに混じっている気がして。
もちろん普段からそこまで意識しているわけではないんですが、立ち止まって考えてみると、そういうものが見えてきたという話です。
結局のところ親切は自分のためだと思う

で、結論なんですが、親切というのは多分、自分のためにやってるんですよね。
誰かが困っていて、助けようか迷って、結局動けなかったとき。
その後、その出来事がじわじわと残り続けることがあります。
「あのとき助けることができなかった」
「なんで動かなかったんだろう」というモヤモヤが後まで尾を引くんです。
これって結局、先の自分が後悔したくないから動こうとしているんじゃないかと思うんです。
その人のために何かしたいという気持ちが先にあるのは確かなんですが、その先に「自分がやれることをやった」という感覚を持ちたいというのが、かなり大きいような気がして。
それが周りから見ると親切に見えている、という感じなのかな?と。
それでも、親切にした方がいい

これは自分の話なので、全員がそうとは思いません。
ただ、親切が自分のためでもあると知っておくと、少し動きやすくなる気がしています。
声をかけて断られたとしても、自分はできることをしたけどうまくいかなかっただけ、という受け取り方ができる。
そのあとに後悔が残りにくくなるような気がしています。
だからこれからも「いいと思ったことはなるべくやった方がいいんだろうな」と思っています。
それは誰かのためでもあるし、回り回って自分のためでもあるので。
引き続き、親切な人を目指して生きていきたいと思います。
今回の記事が誰かの参考になれば幸いです。
それでは素敵な人生を。