
みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は「好奇心」についてのお話です。
私が普段から大切にしている感覚の一つが好奇心なんですが、これに真正面から向き合うことによって何が起きるのかについて書いていきます。
「人生がなんとなくつまらない」
「自分がどうしたいのかわからない」
そんなことを感じながら日々を過ごしている人は、是非読んでみてください。
好奇心に従う

私は昔から好奇心が旺盛でした。
気になったことは、とりあえずやってみる。
そして、その結果を受けて反省する。
というのが基本スタイルにあるような子どもでした。
具体的なエピソードとして、ゲームとかを分解して構造を見たりしていました。
(見ても理解はできないんですけどね)
そして、「分解したもののもとに戻せなくなって後悔する」までが大体の場合において、ワンセットです。
当時はたくさん失敗して、たくさん反省しました。
大人から「ダメ!」と言われると、「それをもしやったらどうなるの?」ということが反射的に出てきてしまうんですよね(笑)
親や先生からすると、かなり扱いにくい子どもだったと思います。
「ダメ!」と言ったはずなのに、静かにそれを実行しているんですから、「なんで…!?」という感覚になっていたと思います。
しかし、私にとっては「ダメ!」と言われたことを実行する理由が、感覚的にはっきりしていました。
自分でやってみないとわからない

たとえば、「ゲームを分解してはいけない」と言われたとしましょう。
そして「なぜ?」と聞くと、「壊れて使えなくなるかもしれないから」と返ってくるとします。
私はここでもさらに疑問が湧くんです。
「本当に壊れるのか」
「今は動いているのに、ネジを外して、中を見て、元に戻しても壊れるのか」
みたいなことを考えてしまうんですよね。
この性質を抱えているおかげで、それはそれはたくさんの失敗を重ねてきました。
そして、大人にもたくさん怒られました。
当時はそれなりに後悔もしたような気がするんですが、大人になって考えてみると「好奇心に対して行動できるタイプで良かった」と感じています。
過去の経験を振り返ってみると、確かに失敗はたくさんありましたし、その分後悔も多かったんですが、その分経験値(知)もかなり溜まっているなと感じています。
経験値(知)は可能性を拓く

昔から、構造とか仕組みとかに興味があったように思います。
ゲームの中身はどうなっているのか
ボールペンはどうしてボタンを押すと、出たり引っ込んだりするのか
そんなことが気になったら、まず分解して、部品の組み合わさり方をみて、小さな納得を積み重ねてきたような気がします。
ゲームとかは高度すぎてわからないんですけどね。
ただ、「動かすには電池に金具が触れる必要がある」とか「線のようなものがきっと重要な役割を果たしている」とかを、なんとなくで感じ取っていたんだと思います。
おかげさま?かどうかはわかりませんが、物事を構造で捉える力が身に付いたんですよね。
たとえば「トイレの水が流れなくなった」というトラブルが発生したとします。
そうなると、「トイレが流れる構造を理解して、それを阻害している要因をあたる。」というのが考え方の基本になったんです。
一般の感覚だと、「修理屋さんを呼ぼう」と思うかもしれませんが、修理屋さんも人なわけで、今の自分となにが違うのかということを考えたときに、「経験、知識、専門の器具をもっているかどうか」くらいの差しかないんですよね。
(人によっては大きな差に感じるかもしれませんが、私にとってはこれが些細なものだと感じます。)
つまり、「やってみる」と「知る・経験する」ということが積み重なると、自分の可能性がどんどん広がっていくわけです。
それまでできなかったことができるようになったり、それまで知らなかったことを知れるので、私にとっては、子どもの頃の失敗が良い経験になっているんです。
自分の感情に向き合えているだろうか

今の世の中(生活)を振り返ったときに、正直なところ、わからないことだらけだと思います。
スマホの仕組みもわからない。
クラウドサービスの仕組みもわからない。
ガソリンがどうやって車を動かすのかもわからない。
便利なものがたくさんあって、それらが当たり前のように生活に馴染んでますよね。
でも、それらの「便利で理解の外側にあるもの」に対して、いちいち「なぜ?」と向き合うことはしないと思います。
これは一つの例でしかないのですが、疑問や日常の不思議に対して見て見ぬフリすることが、当たり前になっていると思うんですよね。
ここまではまだ良いとして。
私としては、自分の中にある感覚も無視していないだろうか?ということが気になったんです。
それはたとえば、
気になる、行ってみたい、話してみたい、会ってみたい、知りたい
とかそんなやつです。
これらは「好奇心」と呼ばれるものだと思うんですが、大人になると、この「好奇心」にしっかり向き合う時間を意識的に設けないと、どんどん時間だけが過ぎていくように感じたんです。
感覚の置き去り

私は双子を育てているのですが、彼らは日々、いろんなことに興味をもって、いろんなことに挑戦しているんですよね。
でも、私の日常を振り返ったときに「どれくらい挑戦できているだろうか…?」というようなことを思うんです。
日常の中に知らないことや、ふと興味の湧くことはあるんですが、それに向き合う時間が無い。
時間だけがどんどん過ぎ去っていって、「見た目は変化してるけど、20代の途中くらいから、感覚の更新があまりされてないんじゃない?」ということを感じたんです。
感覚だけが過去の一地点に留まって、肉体だけがどんどん年老いていくような状態です。
実際のところがどうかはよくわからないですが、私はこれを「老化現象」という言葉で片付けたくないと思いました。
SNSであまり興味のない情報は浴びるように受け続けているのに、「自分が本当に興味のある情報に向き合えていない、そこに時間を使えていないというのはただの怠慢じゃないか?」とかを思ったんです。
(あくまで私個人の感覚的な話です)
もしかしたら、大人になった今も
好奇心に従って、時間の使い方を工夫すれば、
子どもの頃のようにいろんなことができるようになったり、
いろんなことがわかるようになったり、
世界に感動できるような体験ができるんじゃないか?
というようなことを考えているわけです。
まとめ
子どもが世界に向き合う姿勢を見て、「俺は一体なにを大人ぶっているんだろう?」と感じることがよくあります。
私は現在、親とか大人の立場として、子どもたちと接しているわけですが、子どもの純粋な疑問に答えられないことがめちゃくちゃ多いんですよね。
そこで私は「なんとなくの答え」を子どもに授けるようなことはせず、「パパも知らんわ、一緒に調べてみよっか。」と言うようにしています。
これは、「教育」という部分に重点を置いてこのような動きをしていたのですが、かなり自分のためにもなってるんですよね。
子どもの「わからない」「しらない」ということを、大人は当たり前に知っているわけではないですし、「え、そんなところに疑問を持つの!?」という風に、自分の中にある常識を一度取っ払う、良いきっかけになっています。
「子どもの頃のように」は難しいですが、いろんなことができるようになるあの感覚は、大人になった今でもある程度再現可能なはずで。
その感覚はきっと世界の色をどんどん変えていくものだと思っています。
この記事が誰かの好奇心を活性化させるきっかけになると嬉しいです。
それでは素敵な人生を。