精神探求

障がい者という言葉について。「障がい」とは一体何のことなのだろう?

みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。

今回はすこし真面目なテーマで書いていきたいと思います。
(いつもそれなりに真面目ではあるのですが)

世の中的に「障がい者」という言葉(概念)があると思います。
ここについて、少し考える機会があったので、それをみなさんに共有できたらと思います。

障がい者とはなにか

一般的に「障がい者」というと、身体に不自由を抱えていたり、精神的に困難を抱えている人のことを指すと思います。
ただ、私にとってはこの時点ですこし違和感がありまして。

「障がい者」というと、あたかも「その人の性質に問題があるかのような言い方だなあ」ということを思うわけです。

もちろん、「身体が動かしにくい」というのは、私自身「困ることと」して認識しています。
しかしながら、「それによって困る」ということは、果たして「その人の性質自体に問題があるのだろうか?」ということを考えたわけです。

たとえば、私の左手が動かなかったとしましょう。
その上で、私が左手が動かない状態に慣れてきて「生活もろもろ問題ないな」と感じたとします。

この場合、私は障がい者なのだろうか?というような話です。

周りから見れば、「左手が動かない人=障がい者」としてみられるかもしれません。
でも、私自身は左手が動かないことを特に問題としていない場合、「障がい者」と呼ばれることになにを思うんだろうか。というようなことを考えたんですね。

「障がい」とはなにを指すのか

一般的に「障害(しょうがい)」とは、心身の機能に困難があり、それに加えて社会的障壁が存在することによって、日常生活や社会生活に大きな制限を受ける状態を指す。

とのことです。

上記の記載には「制限を受ける状態」とあります。
つまり、「障がいというのは、制限を受けている人が判断するものだ」とも言えそうですよね。

言い換えると、周りの人が障がい者かどうかを判断することではない。という話です。

私の感覚ですが、一般的に言われる「障がい」というのは、「社会に対して」という側面が強いと思っています。
たとえば、「左手が動かない」という状況を抱えていることによって、「社会がそれをどう判断するか」が大きいように思うのです。

左手が動かなくても、右手一本で求められる仕事を100%こなすことができたとしましょう。
それでも、きっと社会は左手が動かないという状況を抱えている人に対して「障がい者」というレッテルを張ることだろうと思います。

ここで私は「一般」の形式に当てはまることを半ば強制的に求め、そこに合わない人を「障がい者」というレッテルで仕分けるのが社会の正しい形なのだろうか?ということを思ったんですよね。

「障がい」は社会側が押し付けている…?

もはや一般的な感覚になっているかもしれませんが、社会が人の在り方を求めている節があると思っています。

障がいという概念もそうですが、社会から見た側面があたかも正義であるような構図が成り立っていると思うんですよね。

もちろん、現状の社会によって助けられている側面も大きいので、「社会全体が悪だ!」なんて極端なことを言いたいわけではないのですが、人の在り方を社会が決めつけ、それに合わない人をある意味仕分けようとする感覚には違和感があるんです。

極端な話、私の左手が動かなかったとしても、私個人の感覚として、心身ともに健康に生きられるのであれば、そこに「障がい」は発生しないと私は考えています。

社会側が勝手に人の在り方を判断して、そこにレッテルを張るのはいささか乱暴なように思うんですよね。
もちろん、個人の感覚のなかで、生き辛さを感じている場合、それは障がいとして見ても良いと考えています。

ただ、現状は社会ベースの生き方が主流になっていて「社会に属することで、生きられる。」という形なので、社会に合わない人というのは生き辛いのだろうなと思うんです。

私が抱える障がい

仮に「障がい」そのものを個人が判断するものとして、「社会に対して障がいを感じている人」を障がい者とするならば、私も障がい者にあたるんだろうなということをよく考えます。

人混み(4人以上)がかなり苦手ですし、考えの合わない人と一緒にいることにとてもストレスを感じますし、そもそも感覚の合わない人に合わせることが苦手です。
さらにいうと、理解のできないルールを押し付けられることに強い抵抗感を感じますし、「常識」という概念にすごく違和感があります。

身体こそ健康ではありますが、精神的な部分でいうと、浮き沈みはかなり激しくて、沈んだときはなにもしたくなくなります。

とはいえ、「社会の中で生きられないのか」と言われるとそうでもなくて、自分の感情や気持ちと付き合う方法を知っているので、なんとかやれているという感じです。
「社会から外れることで不都合が生まれる」という感覚があるので、努力して合わせに行ってるという感じですね。

「みんなそういうものだ」と割り切れたら楽なのかもしれませんが、私にとってはそれが結構難しくて、「なんとか自分の生きやすい方法を探している」というのが現状です。

まとめ

きっと周りから見ると、私は「普通の人」なんだろうと思っています。
別に手足が動かないわけでもないし、会社に行って、それなりに仕事もできていると思うので。

でも、外面がそうであっても、心の中にはいろいろ抱えていたりします。

社会にうまく馴染めないとき、私たちはつい「自分に問題がある」と考えてしまいがちです。
でも、私はそうは思いません。

生き辛さを感じているとしたら、それは自分自身が間違っているのではなく、今の社会の構造が自分の在り方に合っていないだけかもしれないと思い始めたんですよね。

私自身、社会に適応する努力をしながらも、どこかで違和感を抱え続けてきました。

だからこそ、社会を絶対視するのではなく、社会以外の生き方を探してもいいと感じたんですよね。
そう考える人が増えたら、今より少しだけ生きやすい世の中になる気がしています。

私としては、こういうことを感じているのだから、できるだけ自分に関わる人に対しては、その感覚を前提として関わることができたらいいなと思ったわけです。
また、「思いやりのある社会」はそういうところから出来上がっていくのかな?とか。

少し長くなりましたが、今回はこの辺で。

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