
みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は私の生き方についてのお話をさせていただきたいと思います。
(「誰が興味あるねん」は禁止で)
誰の役に立つでもないことかもしれませんが、私は普段から
・自分がどう在りたいか
・その上でどのように生きるか
みたいなことをよく考えています。
精神性を生き方に反映させる

私は普段から「精神性を生き方に反映させたいなあ」ということを考えながら生きています。
それは例えば「美しくありたい」と思った先で、「実際に美しく生きる」ということを体現しようとしているみたいなことです。
(もしかすると全然意味の分からないことを言っているかもしれませんね)
実は、この「美しくありたい」というのは、実際に普段から考えていることでして。
それを「体現するにはどうしたらいいんだろうか」というのも実際に考えています。
さらにいうと、それを可能な範囲で日々実践しているというわけです。
恐らく「美しく在る」というのはイメージし辛いものだと思います。
「それは一体どういうことなのだ」と。
「美」の感覚なんていうものは、個人差があるものですし、私が考える美しさと皆さんが考える美しさとは、ギャップがあるものだというのも前提の感覚としては持ち合わせています。
私が思う美しさ

私の思う「美しい在り方」についての話なんですが(笑)
自分自身を恥じない生き方が出来たらいいなと思っています。
さらに言うと、自分自身を愛せるような生き方がしたいと思っています。
「自分自身を恥じない」というのは、たとえば「人の弱みに付け込んで、他の人が苦しんだとしても、自分だけが良ければそれで良い。」というような生き方はしたくないという感じです。
これはおそらくの話ですが、そんな自分の生き方の先で、自分自身が満足ができるとは思えないし、さらにいうと、もし仮にその先で満足している自分がいたとして、そんな姿を想像するだけでも恥ずかしい思いがしてくるんですよね。
美しさでいうと、一般的には外見の美しさというか、見た目・形が整っていることをイメージされると思うのですが、それよりも言動であったり、考え方であったり、それらの積み重ねによる生き方そのもので、美しさを表現できたらいいなと思うんですよね。
まあ、あくまで理想の話ではあるのですが。
自分自身を愛することができるか

さらに言うと、私はその先で自分自身を愛したいと思っています。
「自分自身を愛する」というと、日本人の感覚からすると「ナルシストっぽい」と思われるかもしれませんね。
日本の文化を見返した時に、自分を下げて、相手を立てるような言動が美徳とされているように思います。
つまりは、「他人軸」で生きることを推奨されているような社会ですね。
自己主張は控えめにして、その場を成立させるとか、調和を重視するような考え方が一般的なのだと思います。
「他人(協調性)を大事に思うことが美徳とされている」というような感じで、もちろんこれは素晴らしいことだとは思うのですが、これって自分を大事にできていない状態で成り立つのかな?なんていうことも思うわけです。
たとえば、「他人を大事にする」と意識したときに、その「大事にする」というのはどういう感覚のことを指すのでしょうか。
きっと個人の中にある「大事にする」の感覚にも差があるわけで、さらにいうと「なにかを大事にしてきた実感」がないと、それは成立しないものだと思うんですよね。
自分を愛することが他人を愛することにつながる

人は基本的に「自分が知らないものは、他人に教えることはできない。」というのが前提にあると思います。
つまりは「愛を実感することによって、誰かを愛することができる。」とも言えそうですよね。
もしかすると、これまで「愛」というものを「実感として受け取ったことが無い」という人もいるかもしれません。
では、その人たちは「本質的に愛を持たない人なのか」という話になると思いますが、そうではないと思っています。
愛とは感覚的なもので「なにかを慈しむことで育てていくことが出来るもの」だとも思うんですよね。
その対象は、他者である場合もあるし、その対象は自分自身でもいいと思っています。
生きていると、辛いこともあるし、もう嫌だと思うこともあるし、逃げ出してしまいたいと思うこともあると思います。
そういう時というのは、大体において「今目の前に広がっている状況が自分にとってのすべてだ」という錯覚に陥りがちなんですが、全くそんなことは無いんですよね。
世界は自分の見えている、知っている範囲より、見えていない、知らない範囲の方が圧倒的に多いです。
なので、きついときは場所を変えたらいいし、関わる人が嫌ならどんどん関係を切ってしまえばいいと思っています。
結局のところ、その先で自分自身が充実を感じられるかどうかが大事なんですよね。
自分自身が安らぐ感覚であったりとか、「私はこれでいいんだ」というような感覚は自分自身でつくっていくことが出来ます。
なので、私は誰かに優しくするためにも自分自身に優しく在りたいし、そう生きることが自分の思う「美しい生き方」に直結すると考えているわけです。
まとめ
なんとなくまとまりが無くなってしまったように思うのですが、大きく言ってしまうと、自分自身の生き方に納得したいということなんですよね。
これはある意味、「自己肯定感」にもつながる話だと思うのですが、私は私自身を認めてあげたいなと思ってるんだと思います。
自分がこの世に生まれてきて、「これでいい」と思いながら生きて、そしてその先で死んでいきたいと思っているんだと思います。
それを実現するためには目の前の欲求を満たすために、誰かを蹴落とすようなことはすべきではないと考えているし、「そうならないようにしたい」というのが私の考える「美しさ」なんだと思います。
いまいち意味の分からない内容になってしまったかもしれませんが、この記事が誰かの参考になれば幸いです。
それではまた。