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【雑記】子どもに蹴られた後の、パパの脳内で起きた自問自答のはなし。

みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。

これはつい先日の話なんですが、洗い物をしているときに、息子に理由もなく蹴られたんですよね。

そこで私は「いや、パパのこと蹴ったらアカンやん。」と言ったのですが、その後に「(いや、待てよ。蹴ったらアカンのはパパに限った話ではないよな…)」とか思ったことがきっかけで、洗い物の最中にごちゃごちゃと脳内で自問自答していたので、そのことについて書いてみようと思います。

本当にどうでもいいような内容が大半なので、暇な人だけ読み進めることをお勧めします。

洗い物をしている時のパパの脳内

息子に蹴られたあと、自分の発言について考えた。
「いや、パパのこと蹴ったらアカンやん」とは言ったものの、「人のことを蹴ったらアカン」の方が良かったかな?と思った。

でも、この場合「じゃあ、モノは蹴っていいの?」という問いが浮かんでくる。
無論、モノであっても蹴るべきではない。

しかし、サッカーボールは蹴ってもいいと思う。
では、「なぜ、サッカーボールは蹴ってもいい」のだろうか。

ここについては、「そういうものとして存在しているから」としか言いようがない。

これはいわゆる、「概念」というもので、人が設定したものである。
そこにあるボールに対して、人が役割や意味を設定して、律義にそれを守ろうとしているわけだ。

概念とは

では、この「概念」は誰が設定したものなのだろう?
そして、この「概念」はどのようにして、個人の中に形成されるのだろうか。

「概念」と一言にいっても、その解釈は人によって、微妙に形を変えるものである。
さらにいうと、国や文化によって、さらに大きく形を変えていく。

しかし、私はこれらの概念を、あたかも正しいものかのようにして、子どもに伝えているわけだ。

ここで私は思った。
「私は概念の牢獄にこどもを閉じ込めようとしているだけなのではないか」と。

概念の牢獄

そもそも、生まれたての赤ちゃんには概念がない。
ただ、そこに生命として存在しているだけだ。

そこに、意識や自我が芽生え、「我、ここに在り。」という感覚を自覚し、世界の中に「自分」という存在を形成させていく。

そして、親や、環境はそこに概念を植え付けていくわけである。
生まれたての赤ちゃんは、概念を通して世界を見てはいない。

「親」という存在から、教えられた概念を「そういうものだ」という感覚で、純粋に受け取っていくのである。
つまり、その受け取られた概念というのは、「親の概念」ともいえるわけだ。

ここで、「教育というのは、親の中にある概念を、子どもに移植していくことなのだろうか…?」という問いが浮かんできた。

親の概念の正しさ

子どもと接する中で、なんとなく確信に近い形で「これは○○だよ」と伝えることがある。

でも、これは実際のところ正しいとは限らない。
そして、「正しさ」というものも、そもそも存在しないのだろうと思う。

その「正しさ」すらも、「ルールや規範」という条件の中で、無意識的に当てはめられた判断基準でしかない。
たとえば、「人を傷つけてはいけない」というルールは、人間関係の中でしか機能しない。

そのルールを虫に対して展開しても、意味を為さないことは想像できる。

これは極端な例ではあるけれど、国や文化、あるいは家族単位で考えても、微妙に解釈は違うかもしれない。
では、「概念は不要か」という問いについてはどうか。

「そもそも考え方や認識が個人によって違うなら、概念とかルールにこだわるより、感覚に従って生きたらいいのでは?」
という話になるかもしれない。

私としては、概念は関係性が存在する場所においては必要だと思っている。

概念の必要性

先ほどの例に戻る。
「人を傷つけてはいけない」という概念は、人との関係性の中においては必要だろうと思う。

一部、その概念が通用しない場合があることも理解はしている。

もし私が「超ヤンキー」であれば、遠慮なく人をぶん殴り、罵り、完膚なきまでに叩きのめし、反抗する気すら起きないほどに、傷つけまわすかもしれない。

でも、その行動は恨みを生む
そして、その恨みは輪廻し、自分に還ってくる(ことが予想される)。

だから、先を見越した時に、未来の自分が苦しまないためにも、「人を傷つけてはいけない」という概念には従っておいた方が無難だ。

なら、「サッカーボールは蹴っても良いけど、バスケットボールを蹴ってはいけない。」はどうか。

これはきっと文化的な側面が強いのだろうと思う。
別にボールが破裂するわけでもないだろうし、それによって起こることは「バスケットボールは手で扱うもの」として育ってきた人からの反感くらいのものなのではなかろうか。
(この話を広げると、収集が付かなくなりそうなので、ひとまずここで切り上げる。)

パパ(私)を蹴ってはいけないのか

長く「概念」の旅に出ていたので、ここらで現実に戻ってみようと思う。
息子は、パパ(私)を蹴ってはいけないのだろうか。

前提として、「私は概念の集合体である」と考えている。

意識や自我はあるし、人の形もしているし、感情も湧く。
けれど、基本的には「概念」だろう。

私という存在も、私が感じることも、発する言葉も、行動も。
それらすべては、概念が基準になっている

「私」という人間存在を通して、集まってきた概念の固まりが「パパ(私)」だ。
基本的に「パパ(私)」という存在は、「快」か「不快」かの判断しか下してはいない。

その内容の複雑さはあるにしても、ジャンルでいうと、個人の感覚として受け取った事象が「快」か「不快」か、でしかない。
そして「息子に蹴られる」ということは、「すこし不快」だ。

この事実を確認したとき、ここに含まれている「息子」という概念に対して、どこか私自身が驕っている部分があるような気がしてきた。

たとえば、「神」に蹴られたとしたら、どうか。
「不快」なのだろうか。
それとも、「神だからいっか。」となるのだろうか。

無意識のうちに私は、概念の牢獄の中に自分自身を閉じ込め、さらに「自分」という存在をランク付けし、勝手に驕り高ぶっているのではないだろうか。
…ということを思った。

となると、「子どもに対して、なにをどう伝えるか」が変わってきそうでもある。

私は息子になにを伝えたらいいのか(思考の旅の結論)

パパ(私)のことは蹴ってもいい。
けれど、それは他の人にやるべきではないと思う。

その行為は相手に痛みを与えるもので、さらに、その行為に含まれる意味のすべてを、受取り手は理解できない。
つまり、君がやった行為や、君という存在が、その行為によって誤解されてしまう可能性があるということでもある。

これは、君にとっても、蹴られた人にとっても、良いことではない。

君にとっては軽い気持ちで行ったことかもしれない。
でも、そこから発生する影響については、予想がつかない。

だから、誰かを大切に思うのであれば、簡単に人を攻撃するようなことはしてはいけない。
誰かを故意に攻撃する時は、その人と、その人に関係する人すべてを傷つける覚悟で臨んだ方がいい。

さらにいうと、その先で生まれる恨みを、すべて受け止める覚悟は持っておいた方がいい。

もし、その覚悟があるなら。
あるいは、その覚悟云々を抜きにしても、「なにか大切なものを守りたい」という気持ちがあるのなら、人を攻撃するといい。

ただし、パパはその上でも、「攻撃」そのものを推奨はしない。

さらに、ひとつだけ伝えておきたいこともある。
「君のパパ」という概念は、君という存在を愛している。

だから、パパは君から蹴られたとしても、君を恨んだりしない。

たとえ「君に傷つけられた」と感じたとしても、パパが君にその報いを受けさせることはしない。

だから、常に安心してほしい。
パパは君を愛している。

まとめ

きっかけは「息子に蹴られた」ということだったんですけど、私が息子を愛しているということを、再確認するきっかけになりました。
息子に蹴られてよかったです。

さらにいうと、自分の今までの行いを悔い改めるきっかけにもなりました。

私はこれまでに、たくさん人を傷つけてきた自覚があります。
私がここに書いたことは、「自分のこれまでの行動」とは、遠くかけ離れた思想だと感じました。

とはいえ、これは現在の私の思想であって、過去の私はこの考えには至らなかった(至れなかった)わけです。
これまでの私は、精神的にも未熟で、自分の行為の影響を考えることもできないような人間でした。
(現状においても、未熟さを残している。)

さらにいうと、この思想が仮に、過去の自分にあったとして、それを実行できたかはわかりません。

でも、過去の私が故意に人を傷つけたとき、この結論を聞いてみたい気もしました。
それによってなにが変わるかも、結局はわからないんですけどね。

もしここまでお付き合いくださった方がいたのなら、ありがとうございます。
脳内旅行は楽しいので、おススメです。

それでは今回はこの辺で。

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