お金 人生 精神探求

私たちは“消費者”でいることに慣れすぎていないだろうか?

みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。

「つくること」と「消費すること」について考えたので、その内容をみなさんに共有してみたいと思います。

世の中にはいろんなコンテンツや商品があって、大体の人はそれを「消費者」の立場として受け取っていると思いますが、つくる人の視点に立つことで世界の見え方が変わってくるというようなお話です。

消費者の感覚

私は普段いろんなものを消費しています。
日常的なことでいうとスーパーで野菜を買ったり、アパレルショップで服を買ったりします。

で、その消費のタイミングでどこを見ているかというと「値段に見合うか」という部分です。

たとえば、野菜でいうと「形が整っているか」とか、「色つやはどうか」とかそんなことです。
(どうせ食べるのだからあまり形は関係ないだろうとも思うんですが、どうしてもその観点で考えてしまう。)

また、服のはなしだと、デザインだとか、自分の好みに合うかとか、使い勝手が良さそうかとかそんなことを判断の基準にしています。

消費行動というのは「お金と引き換えに得る満足が金額に見合うか」ということが基本になっているのですが、「満足」を測る指標として、先ほどあげたような、形とかデザインとかで評価して、「満足」が期待できるものにお金を支払うという動きになっていると思います。

これは一般的に、普通の感覚だと思います。
お金を支払うのだから、それに見合った価値(サービス)を受け取りたいと思うはずです。

ひとまずこれを「消費者の感覚」として脇に置いておいて、次につくる人が考えていることがどんなことかなのかを見ていきます。

つくる人の感覚

これは私の感覚をベースに話していくのですが、基本的には「良いものをつくりたい」と思いながら、なにかを作っています。

この時、だれかを満足させたいと思うこともあれば、「自分を満足させたいからつくる」というパターンもあります。
(絵とかはそうですね。自分が描きたいから描いてます。)

これは現代社会ではあまり知られていないことだと思いますが、「つくる」って結構大変なんですよね。

今って、お金を払えば大体のものが手に入ります。
2~3万円出せばテレビを買うことだってできます。
すごいことですよね。

ここで野菜のはなしに戻るんですが、みなさんは野菜をつくったことがありますか?
それは例えば、整備された畑に種を蒔いて、水を撒いて、収穫する。というような一時的な収穫体験のようなものでは無く、定期的に自分のたべるものを自分のために収穫するというような感じの話です。

我が家では庭で野菜を作っているのですが、これがなかなかに大変なんです。

ゼロからつくることの大変さ

我が家の「庭」というのが、もともと家が建っている土地でした。
土があって、石がゴロゴロと転がっているような場所です。

私は野菜をつくることに無知だったので「ここで野菜を育てよう」と思い、ホームセンターで買ってきた土を庭に撒いて、畝をつくって、種を蒔いたんです。

するとどうでしょう。
全然できないんですよね。

一部上手にできたものもあったんですが、ほとんどがダメでした。
虫に食べられたり、そもそも野菜ができなかったり。

ここで土づくりの重要性に気が付いて、今は土づくりをしたりしているんですが、野菜がうまくできなかったときに思ったんですよね。
「スーパーの野菜ってすごくね?」と。

あんなに形がそろって、綺麗な野菜があたりまえのようにゴロゴロと並んでいるわけです。
さらにいうと結構安くで売られているわけです。
正気の沙汰じゃないですよ。

なんかそういうことを感じたときに「農家の人たち大丈夫なのかな?」なんてことを考え始めたんですよね。

消費者優位の社会

最近のことでいうと、お米の値段がめちゃくちゃ上がってますよね。
体感的には一時の倍くらいの値段で売られています。

消費者の感覚でいくと「お米高いなあ~」「もっと安くならないかな~」とかを思うわけですが、作る人の視点に立った時に「今までの値段、あるいは今の値段でもつり合いは取れているのかな?」なんてことを思うんです。

ちなみに私はお米を作ったことがありません。
基本的にはスーパーで並んでいるものを、お金と交換で買わせていただいて、食べさせていただいています。

で、そんな作り方も苦労もしらないような状態で「お米高いなあ~」なんてことを平気で口に出していたことがなんとなく恥ずかしくなってきたんです。

今の世の中って消費者優位の社会だと思うんです。

お金を出せばサービスを受けられる
お金を出せば服が買える
お金を出せば食べ物が食べられる

私もそれを「当たり前」としていますけど、本来お金なんて何もできないじゃないですか。
「お金と交換できる」、「お金と交換してくれる人がいる」という状況がつくり出している、仮想的な価値であって、お金を食べてもお腹は膨れないわけです。

つまり、本質的にはお金は万能ではないんですよね。
「社会の仕組みがそれを万能にみせているだけ」とも言えると思います。

そんな中で「お金を払うことになにを偉そうにしているんだろう…?」という感覚になってきたというか。

「お金を払うからいいでしょ?」みたいな感覚って、どうも人として生きることと、本質的にずれているんじゃないか?というようなことを思うんです。

「社会」という仕組みの中で

現代社会を生きる上で、「いろんなものが見えにくくなっているな」と感じます。

たとえば、スーパーに並んでいるお肉。
そのお肉がつくられる過程というのを、わたしは直に見たことがありません。

そのお肉がスーパーに並べられるまでに、動物を解体する人がいただろうし、動物にも苦しみがあっただろうし、そんなものを全部すっ飛ばして「陳列されたお肉」を見ているのが現状です。

で、そんないろいろを見ず知らずの状態で「お金」を払って、それを受け取っています。

「もし、私の目に見えていない工程をやってくれる人がいなかったとしたら、私はどうなるんだろうか。」そんなことをふと思います。

あたりまえのように食べているお肉は当たり前ではなくなるし、野菜だって公園の砂場でつくれるわけではありません。

そんな中で私たちは「一方的な消費者」でいいのかな?
なんてことを思うんです。

もちろん、社会の仕組みがこのままずっと続いていけば特に生き方を変える必要も無いと思いますが、お金の価値は上がったり下がったりするわけで、さらにいうと食べ物なんかは外国からの輸入に頼っている部分が強いですよね。

なので少しずつでも、お金がなくなったとき自分がどう生きるかというのは考えておいてもいいのかな?と思ったわけです。

まとめ

これはすべての人に言えることだと思いますが、自分の生活の当たり前の成り立ちを想像したり、できることは自分でやってみるという考え方が世界の見え方を変えると思っています。

ある意味で人に優しくなれるというか、気持ちに余裕が生まれるんですよね。

飲食店で働いたことが無い人は、飲食店で働く人の大変さはわからないと思います。
どんなお客さんが大変で、どんなやりがいがあって…みたいなことはわからないわけです。

つまりは知らず知らず自分が「大変なお客さん」になっているということもあるんですよね。

これは人を思い遣るとか、そんなことにも通じる部分だと思いますが、目には見えない部分の理解に努めることで、世界の解像度は増していくはずです。
この考え方が誰かの役に立てば幸い。

それでは素敵な人生を。

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