
みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は「教育」について話していきたいと思います。
最近、「学校後遺症(https://daiwa-log.com/magazine/toba2/gakko1/)」という記事を読んであらためて「教育ってなんだろう?」ということについて考えたことが、この記事を書くきっかけでした。
これを読んで「かつての教室を、自分の子どもに対して、無意識に再現していないだろうか」という問いが浮かんできたんです。
私自身、子どもを育てている身なので、改めて教育について考えておきたいと思ったのと、もしその考えが誰かの役に立つのなら嬉しいなという感じです。
もしよければ、子どもを育てている人に読んでみてほしいです。
学校後遺症

まず、簡単に前段で紹介した「学校後遺症」の感想から。
私たちの中にある「否定性」というのが、学校の教育やルールなどによってもたらされているのではないか。というところから始まります。
たとえば、人と比べてしまう、偏差値を気にしてしまう、自分ができなかったことを子どもにもとめてしまうとかそんなことです。
つまるところ、「ルールだから従う」とか「判断基準(点数とか比較とか)」は、学校教育によって作られ、今もそれを無意識に守っていることが原因で生きにくさや自己否定につながっているのではないかという話です。
これを読んだとき「確かにそうかもしれない」と思ったんですよね。
私は割と、学校の中でも浮いた存在?だったと自覚しているんですけど、納得できないことには結構反抗するような子どもでした。
「理由もわからない」、「やってみてどうなるかわからない」ということは、まずやってみて怒られるというのが基本にある子どもだったように思います(笑)
そういう意味で、先生からは「扱いにくいヤツだ」と思われていたと思うんですが、同時に「理由を聞いてもまともに答えられない先生」に失望することも多かったです。
そんな子ども時代を踏まえて、私の中には一つ「ルールとの付き合い方」みたいなものが確立されていきました。
ルールとの付き合い方

基本的に、学校という場所に設定されたルールには納得できないことが多かったのですが、それにいちいち確認することも面倒だし、先生と呼ばれる人たちと関わるのもあまり好きではありませんでした。
なので、ある意味で学校という場所に、自分の中で見切りをつけるようになりました。
表面的にルールには従う。しかし、自分の中の「考え」として抱えることはしない。
という感じです。
たとえば、校則で「携帯電話を持ってきてはいけない」というルールがあったとします。
その場合「学校の中で表立って携帯電話をさわるようなことはしないけど、携帯電話は持っていく。」みたいな動きをとっていました。
周りからみたときに、「ルールを守っている風ではあるけど、実際は守っていない。」みたいな感じです。
しかし、私も若かったので「意図せず周りの子に携帯電話を持ってきていることがバレる」こともありましたし、仲のいい子には「持ってきている」と話していました。
(その結果、先生にバレることもあって、怒られたりもします。)
私にとっては、「先生に怒られる」ということはある意味どうでも良くて、「バレたらバレたで禁止している理由を聞く機会にする」みたいなことをしていました。
先生からすると「なんやコイツ!ルール破った上で反抗的な!!」と思うかもしれませんが、私はそこで「ちゃんと説明してくれる」とか「こちらが問題としている箇所に向き合ってくれるかどうか」を測っていたのかもしれません。
基本的に「ただ、ルールを守ることが正しい。」とは考えていなかったので、「ルールの目的が不明な場合は、面倒ごとにならない程度に、自分の解釈を混ぜて対応する」という感じで過ごしていました。
私には「ルール」で自分の考えや行動を制御されることに、土台部分として抵抗する面があったわけです。
個人の感覚や意見の尊重

前置きが長くなりましたが、そんな感覚を持った私が「子どもの成長と向き合う中で意識していること」についてです。
私はなるべく子どもと対話したいと思いながら子育てをしています。
本人が「どうしたいのか」また、「なぜその行動をとったのか」に向き合うことを、なるべく大切にしているという感じです。
先日、息子が私の「着る毛布」をハサミでチョキチョキしていました。
そして、私はほぼ反射的に「なにしてんの」と怒りました。
本人は「見ていなかったから、やっていいと思った。」と話したのですが、「これは切る瞬間をみていなくてもそのうちバレるから、結局怒られるよ。」と伝えて、さらに「なぜそれをしたのか」を聞きました。
長い時間かかったのですが「自分のハサミでこれ(着る毛布)を切ってみたかった」と話してくれたんですね。
さらに、私は「これ(着る毛布)を切りたかったのか、布(紙以外のもの)を切ってみたかったのか、どっちだろう?」と聞くと、「布(紙以外のもの)を切ってみたかった」と話してくれたんです。
ここまで紐解けると、私にとってもサポートの方向性が見えてきます。
「なんとなくのスリル(親の見てないところで悪さをすること)を求めている」のか、「好奇心を試してみた」のか。
上記2つは全く性質が違いますよね。
私は「自分の好奇心と向き合い、実際に行動してみること」は、人として生きる上でとても大切なことだと思っています。
たとえば、それによって人を傷つけたり、誰かの迷惑になるようなことはやるべきではないですが、個人の「やってみたい」という感覚は、だれかの勝手な都合で消し去っていいものでは無いと思うんですよね。
教育とは、人の未来を限定せず、広く拓くこと。

私がここで言う「未来を限定する」とは、親の都合や理想像で、子どもの行動を縛ってしまうことを指します。
逆に「未来を拓く」とは、子ども自身が、自身の興味と好奇心をもとに、自分の未来を選べる余地を残すことだと考えています。
私は、親の立場で子どもたちと関わる中で「自分都合になっていないかな?」ということを、よく考えます。
たとえば、子どもがご飯をダラダラと食べていたとしましょう。
こちらは早く片付けたいので「早く食べて!」と、つい怒ったりします。
これは大体の場合、親の都合だったりします。
「自分が早く片付けたいから、子どもの行動を制御しようとしている」とも取れるわけです。
自分の理想像を子どもに押し付けているような感覚にもなってきて、「良くないな」と思うんですよね。
(もちろん、それによって「寝るのが遅くなり、成長に影響を与える。」とか、子どもが納得できる理由を説明できるならいいと思いますが。)
私は、なるべく子どもの興味や感覚に寄り添って子育てをしたいと思っています。
とはいえ「なんでもあり」という形は教育の放棄だとも思うので、
・目的を明確にする
・理由を説明する(納得できていない時)
・子どもの意見を尊重する
ということを大事にしているというお話でした。
まとめ
なんとなくまとまりのない話になってしまいましたが(笑)
子育てというのはある意味、親の都合で進められてしまう場合が多いです。
もちろん、親も人間で、これまでの生き方や考え方を土台に持っているので、それをベースとした子育てが展開されるというのは仕方がないことなのですが、親(教育者)として、対話や問題の核について考える姿勢は忘れてはいけないと思うんです。
教育というのは未来を限定するものでなく、広く拓いてくれるものだと信じています。
なので、考え方は柔軟であるべきだし「自分の枠に納めようとしてはいけないよな」ということを思うんです。
子育てや教育についての考え方はいろいろとあるかと思いますが、ひとつの参考としてみていただけると幸いです。
もしよければ、この機会に教育について考えてみてください。
それではまた。