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それでは本題。
ずばり、運命や宿命を信じるか。
面白い質問です。
私は運命や宿命を信じる派です。
今回は運命や宿命とは何を指すのか、運命や宿命についての私なりの意見、そして運命や宿命はコントロールできないものなのか。
みたいな話ができたらいいなと思っています。
運命や宿命って一体なに?

まずは言葉の定義を見てみましょう。
以下はWikipediaからの引用です。
人間の意志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと[1]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8B%E5%91%BD
ざっと調べてみたところ、運命も宿命も似たような意味だったのでとりあえず「運命」の説明のみにとどめておきます。
人間の意思をこえて幸福や不幸が決定される。みたいな感じですかね。
自分の身に起きている現象は神様が決定している、的な解釈もできると思います。
上記の定義を踏まえたうえで、もう一度自分なりに運命や宿命について考えてみたいと思います。
日常に起こるあらゆる出来事。
幸福や不幸は最初から決まっていて、人間はそれをただ観察・体験するだけの生き物なんでしょうか…?
そして神様がいるとして、私たちの日常を常に選択、決定しているのでしょうか…?
運命や宿命についての私なりの意見

前段部分で私は「運命や宿命を信じる」といいました。
ただこれは「幸福や不幸は最初から決まっていて、人間はそれをただ観察・体験するだけの生き物だ」と言いたいわけではありません。
幸福や不幸はある程度自分で選択できると思っています。
ちょっと何言ってるかわからないと思うので説明をさせてください。
私は人の人生について、あらかじめ分岐の数が決まっていると考えます。
例えば私の現在から派生する未来が100通りくらいあって、日々の選択・行動によってその100通りの未来からどれかを選択しているという考え方です。
これはつまり地球上、あるいは精神・物質の原理によって物事の進行(運命分岐の数)が決定されるのではないか?ということです。
原理原則の上で起こりうる分岐の数には限界があって、その範囲の中でなら運命選択が可能ということです。
それでは神様という存在についてはどうでしょうか?
上記の話だと、私たちの日常を常に選択、決定している神様はいないという話になります。
個人的にそういう類の役割を果たす神様はいないと思っています。
仮に創造主を神様と呼ぶとしたら、神様の役割は最初で終わっていると思います。
もし仮に今存在しているとすれば、特に何もせず成り行きを見続けているんじゃないかな?と思います。
たとえていうなら、神様はゲームのプログラマー的な立ち位置だと思います。
ゲームの中のルール(心肺停止によって人が死亡する)や仕組み(地球上には重力があって物質は下に向かって落ちていく)を組み立てて、スタートボタンを押すところまでが神様の役割です。
なので不幸な現状に対して「神様がいるならこんな現状はおかしい!!」とか思うかもしれませんが、そんな状況もあり得てしまうわけです。
神様は不幸な状況を見てるかもしれませんが「いや~、全ては僕が組んだプログラムに則って動いているだけやから、そこで起こったことにまで手は出せへんのよね~。」という感じだと思います。
不幸な現状に対して神様に助けを求めるのは、ゲームで敵が強すぎたときに「プログラマーなんとかしてよ!!!」と言ってるようなもんです。
あくまでこれは私なりの意見なので、本当がどうかはわかりません。
そして答えはきっとだれも知らないと思います。
なので自分の中で納得できる答えを見つけ出すのがいいのかな?とか思っています。
運命や宿命はコントロールできないのか

先ほどもチラッと書きましたが、この世界の原理原則に基づいた範囲であればある程度コントロール可能だと思います。
しかしすべてをコントロールすることはできません。
これはどういうことかと言うと、本質的に自分がコントロールできる可能性を秘めているのは、自分の体のみという部分にヒントがあります。
なんとなく回りくどい言い方をしていますよね。
しかしこれにもちゃんと訳があります。
自分の行動はある程度コントロールできますよね。
例えば「好き」と言うか、「嫌い」と言うかみたいなことです。
たとえば、部屋に一人だったら「好き」も「嫌い」も選択可能で、特に選択することに障壁を感じません。
でも「対象」がいたらどうでしょうか。
たとえばずっと片思いをしている理想の相手がいて、今まで一言も話したこともない状態で、その人に向かって「好き」と言えるでしょうか。
言いたくてもなかなか言えないと思います。
これがある意味ではコントロールの障壁です。
人は自分の体をある程度自由に動かす力を持っているけれど、常に自由に動かせるわけではないわけです。
例えば理想の人に「好き」ということができれば、理想の人と人生を歩む選択肢を選ぶことができるかもしれません。
でも「好き」を言わない限りその選択肢は自分の手の中にはないわけです。
ここまでが自分がコントロールできる可能性を秘めた部分です。
やりたいと思ったことがすべてできたとき、あなたに用意された運命がいくつか選択可能な道になることがわかりますよね。
次に自分のコントロールの外にある部分。
自分が「好き」と言って、相手がどう思うか、の部分です。
これはコントロールできませんよね。
なにせ相手の感情の話なので、自分の操作範囲の外にあります。
でもある程度ならコントロールが可能だと思っています。
たとえば、相手の求めるものを理解しようと試みて、相手の理想に近づくことができたらどうでしょうか?
今は関係のない他人かもしれませんが、少しずつ相手に近づいて、相手を理解して、自分を理解してもらって、相手にとってより理想的な人に自分がなることができたなら。
きっと不可能ではなくなりますよね。
この世界に存在していて、この世界の原理原則に則った現象であれば、可能性がゼロではないということです。
ただし、前提として自分の体や心を最大限コントロールして、目的のための努力を惜しまないことが必要です。
運命や宿命の数はこの世界の原理原則に基づいて、数が決定されているけれど、その中から選べない未来はない。
全ては今の自分がどういう選択をするかにかかっているんじゃないかな?と思っています。
まとめ
例えばそれは目の前の困っている人を助けるのか、見過ごすのか。
大切な人に愛してると伝えるのか、伝えないまま死ぬのか。要はそんな話です。
自分の理想のためにどこまで自分を変えられるかがカギになると私は考えます。
努力はしんどいし、人は変化を恐れます。
でもやれば変わるし、やれることが増えれば選択できる運命の数も増えます。
運命や宿命の全てをコントロールすることはできないかもしれませんが、自分の選択によって運命は広がりを見せていくはずです。
運命は決まっているといってしまうとなんだか悲観的な側面に感じられますが、運命は決まっているが自分で選択することができるといえば少し希望が見えてきますよね。
どんな人生にするか、どんな運命を選択するかは目の前に展開する毎分毎秒の自分の選択が決めるわけです。
「これは本当に正しいのだろうか…?」そんな自問自答の毎日が自分を理想的な運命に導いてくれると私は信じています。
私はすべての人が良い運命を選択できればいいなと思います。
それを実現するためのツールの一つがこの「涅槃ぶろぐ」であればいいなあ。なんて思ったりするわけですね。
それではこの今回はこの辺で。