みなさんこんにちは。
今回は日替わりのお題について考えていきたいと思います。
ずばり、”肉食について”です。
私の…というか、人の生活をあらためて観察したときに、肉食というのは当たり前のように行われていますよね。
最近世の中ではサステナブルとか、エシカル(倫理的な)とかいう言葉がよく聞かれるようになりましたが、果たして”肉”を食べるという行為はそれらに反しているのでしょうか。
“肉”を食べるということ

まず私は現状、動物のお肉を日常的に食べています。
昔からそれが当たり前のように行われていて、そこに対して深く考えを巡らすということも無かったですが、最近は少し考え方にも変化が出てきました。
肉を食べるということは、”命をいただく”ということだと思います。
鶏肉、豚肉、牛肉など様々なお肉がスーパーなんかでも購入することができますが、それらのお肉はスーパーに並ぶずっと前、1つの命として生きていたわけです。
この事実も当たり前と言えば当たり前なんですが、一般的にそれらのお肉を”一つの命”としては扱ってはいないと思います。
食材であったり、好き嫌いの対象であったり、”食べるもの”という認識でしかないですよね。
私は大人になってからこの部分の意識に変化が出てきました。
序盤にも述べたように”もともとは一つの命だった”という見方をするようになったのです。
命をいただくということ

日本の文化には「いただきます」という言葉があります。
これは命をいただくという意味であったり、目の前の食事に関わる一連の流れ(食事を用意してくれた人や、食材の生産に関わったあらゆるもの)への感謝をあらわす言葉だと思っています。
おおよそ一般的な家庭において、現代日本では食べることにあまり苦労をしないと思います。
スーパーに行けば食べるものがあって、場所によっては炊き出しなんかもあったりしますよね。
人は”当たり前”だと感じるものに対して”感謝”を忘れてしまう生き物だと思うのですが、食事についてもそれが言えるんじゃないかなと思うんです。
“毎日の食事に対して感謝が出来ているかどうか”みたいな話なんですが、これは人として生きていく上で忘れてはいけない感情だと思っています。
(個人の意見なのでご参考までに)
食事というのは体をつくります。
人やその他あらゆる生き物においてもそうですが、食べないと死んでしまいますよね。
”命をつなぐためには食べる必要がある”
でも、自分が生きるために他の生物の命を奪ってもいいのかと聞かれると少し疑問が出てくると思います。
例えば”人間よりも知能・肉体が発達している強い個体が現れたとき、自分の愛する人がその個体の存続のために命を奪われたら、それを受け入れられるか。”というような話です。
きっと私はすんなり受け入れることはできないと思います。
そしてそれは牛や鶏や豚も同じことだと思っています。
命にはつながりがあって、親や子や友達のような関係だってあると思っています。
そこに人間のような複雑で繊細な感情が備わっているかと聞かれるとそうではないかもしれませんが、それが”命を一方的に奪うこと”の免罪符にはならないと思っています。
かといって、”感謝をすれば命を奪ってもいいのか”と言われれば私はそうとも思いません。
肉食を考える上で大切なのは、命を奪うという行為から派生する行動だと思っています。
命を奪うものとしての在り方

ここからは私個人の感覚や考えが強くなるので、ご参考までに見ていただけると嬉しいです。
現代社会において、不必要に命を奪ってそれを捨てているような現状があると思います。
スーパーに行けば消費しきれないほどのお肉や食べ物がならんでいる。そして人はそれを捨てている。
なぜこういうことが起こるのかというと”お金が基準の世の中”になっているからだと思います。
お金があれば裕福な暮らしができる。
お金が無いと生活ができない。
人を雇うのにもお金がいる。
何をするにもお金が必要。
このような状況があるから、人がお金を稼ぐために過剰に生産し、生産にかかるコストを下げて、金銭的なロスを減らそうとする社会になっていくと考えています。
つまるところ、人間がお金のために命を過剰に生み出して、それを捨てるようなシステムが出来上がっているわけです。
私はここについては絶対的に間違っていると思います。
仮に命を奪うのであれば、必要な分だけ感謝の上で余すことなくいただくということや、それを還元していく動きが必要なんじゃないかな?と思うんです。
それは例えば動物の暮らしやすい場所づくりをするとか、苦しみを与えないように工夫をするとか、命の上に立つ者としての配慮や思いやりをした方が良いんじゃないか、というようなことです。
命の原則部分として、体内や自然からエネルギーを生成することが出来ない限り、生きるために何かしらの命を奪う必要はあると思っています。
それは虫や動物も同じことで、そこについては”自然の営み”として考えてもいいと考えます。
でも、そこに感謝したり”命を奪うものとしてどうあるべきか”というのは人として、考えてもいいじゃないかな?と思うんです。
私個人の感覚として、人には想像したりあたらしい何かを生み出す力があるわけで、ただ命を奪うだけの存在にはなりたくないという想いがあります。
それが共生とか、エシカルという部分の答えになるとは思いませんが、日常的に命を頂く者としての努めなのかなと思うわけです。
まとめ
これは我が家の子育ての話になりますが、私は息子たちに対して「食べ物は大切にしてね」ということをよく言います。
そこにはいろんな思いがあるんですが、食事と言うものが人が生きるための土台であることも踏まえて、命に”感謝”ができない人になってほしくないという気持ちが強いんです。
必要なものを必要な分だけいただく。
その上で、自分の命を使ってなにをするのかを考える。
別にすべての人がこういう生き方をすべきだとは思いません。
人の生き方は人の数だけあると思っていますし、それはそれでいいとも思います。
ただ、”いろんな視点を持って自分の生き方を考える力”というのは、どの人生のどの場面においても役立つものだと思います。
これは人を助けられる人間になるかとか、人を虐げる人間になるかみたいな部分にも関わってくると思いますし、食事を通して命を学ぶことが自分の人生と向き合うことにもなると考えています。
結構飛躍した着地点になりましたが、私なりの肉食に対する思いでした。
誰かの参考になれば幸いです。
それでは素敵な人生を。