みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は時代の便利さによって、人生が味気ないものに変わっていないかみたいなお話です。
私たちは今、かつてないほど便利な時代を生きているわけですが、たまに「このままでいいんだろうか?」みたいな感覚になるときがあるんですよね。
スマホ一つで世界中の情報を飛び回る

最近…というか、ネットが普及してからですが、スマートフォンひとつで世界中の情報にアクセスできるようになりました。
さらに言うと、SNSを通じて遠く離れた人と繋がることも、AIの力を借りて自分の手にないスキルを補完することもできちゃいます。
でも、前段でも述べたように、その便利さの先でどこか“味気なさ”のようなものを感じる瞬間があるんですよね。
現代において「知る」ことがとても容易になりました。
世界のどこかで起きていることを、リアルタイムで知ることができるし、動画を観れば、まるで自分がそこにいたかのような気にもなります。
だけど、そこで得た情報が本当に自分の内側に何かを残しているかというと、少し疑問ですよね。
自分の目で見て、自分の足で歩いて、自分の肌で感じたこと。
それこそが「体験」であり、「人生の糧」になるんじゃないかな?と思います。
めんどくさい。でも、そこにある確かな価値。

人生って、本来とても不便で思い通りにいかないものですよね。
天気に振り回されたり、予定が狂ったり、感情が乱れたり、体が思うように動かない日だってあります。
でも、そういった“不完全さ”のなかにこそ、リアルを生きている実感があります。
AIに任せれば、時間も労力も省ける。
SNSを使えば、人間関係もある意味“最適化”できる。
でも、それらが本当に自分の人生を豊かにしているかどうかはよく考えないといけないと思うんですよね。
本来なら出会えたはずの人、本来なら感じられたはずの貴重な喜びや苦しみが、何かの“代替手段”によって失われてはいないかみたいな話です。
最後に思い出すのは、スクリーンの中の情報ではない

私たちが人生の最後の日に思い返すのは、検索して得た知識でも、画面越しの世界でもなくて、自分自身の肉体と精神を通して得た経験だと思います。
たとえ辛くても、悲しくても、喜びや怒りがあったとしても、自分で考えて、選んで、行動してきた経験こそが、人生になっていくのだと思います。
そもそも技術は“道具”であるべきだと思うんですよね。
もちろん、テクノロジーを否定したいわけではないし、便利な道具はうまく使えば人生を広げてくれます。
けれど、「頼る」と「委ねる」はまったく違んですよね。
ツールに頼ってもいいけど、“自分自身”を委ねてしまうと、感じる力、選ぶ力、考える力がどんどん損なわれていくと思います。
まとめ
私自身、最近は生成AIをよく活用しています。
おかげでいろんなことで時短できるようになったんですけど、時短で効率化していくことが人生ではないし、「非効率なところに人生を感じる場面の方が多いよなあ」なんてことを思います。
私はときどき、SNSなんかを見て時間を溶かしている時、空しい気持ちになるときがあります。
これは全員にとって共通の感覚ではないかもしれませんが、もし自分の日常にどこか不満や空虚さを感じているのだとしたら、それは、便利さの中に埋もれてしまった「人生」が、自分自身を呼び戻そうとしているサインかもしれません。
そんなときは、スマホなど便利な道具から離れて、自分に「自分がどうありたいのか」と問い直してみてください。
きっと無駄なことではないと思います。
それでは素敵な人生を。