未分類

毎日が「当たり前」に展開している人へ。「今」という存在の、ありがたみについての話。

みなさんこんにちは。

つい先日「今」という存在の偶然性というか、必然性というか、奇跡というか…
そんなことを力強く感じる場面があって、「今のこの瞬間って超ありがたいな」と思ったので、この記事を書こうと思いました。

生きてると日常が当たり前になって、ありがたみとか感じにくくなりますけど、毎日が当たり前に展開している人へこの記事が気持ちをリセットするのに役立てれば幸いです。

「今」という存在

pexels-photo-359989.jpeg
Photo by Aphiwat chuangchoem on Pexels.com

「今」という言葉がありますよね。
あるいは「現在」とかそんな言葉でもいいんですけど、「今」というのは「目の前に広がっている一点の状況」のことをいうと思います。

「今」というのは自分の中でしか感じられないものですよね。
他人の「今」を私が感じられないように、私の「今」を誰かがそのままの温度感で感じることはできないと思っています。

「今の気持ちを伝えて!」と言われて、その「今の気持ち」を伝え終わった頃、なんとなく伝わったような気がするという感覚を残して、伝え終わったはずの「今」の気持ちはすでに過去のものになっています。

このことから「今」というのは常に移り変わっていて、それに伴って自分の内面にある「気持ち」なんかも変化することがわかってもらえると思います。

消滅と発生

stars and clouds at nighttime
Photo by Arnie Chou on Pexels.com

「今」というのは毎分毎秒、あるいはそれ以下の人間の尺度で判別できない単位での消滅と発生を繰り返しています
そして、その消滅と発生について今後のことはなにも約束されていません。

もっとシンプルな言い換えをすると「未来は約束されていない」ということです。

例えば「明日は晴れるだろう」という予報があっても、本当に晴れるかどうかは明日になってみないとわからないわけです。

これは人の気持ちも同じで、「この人は明日も私のことを好きでいてくれるだろう」は約束されていないということです。つまり、全ては「今」になってみないとわからないというお話ですね。

ここまでで「今」という存在がいかに脆くて、儚いものかということがわかってもらえたかと思います。
それでは次に自分の「今」に焦点を当ててみたいと思います。

「今」手の中にあるもの

family walking on path
Photo by Vidal Balielo Jr. on Pexels.com

私には「今」、大切な家族がいて、遊べば心から楽しいと感じられる友達がいて、いざという時に助けてくれそうな人たちがいて、いざという時に助けたいと思えるような人たちがいます。

これは本当にありがたいことで、私とこの人たちとの未来ですら、なにも保証されていないものなんだと感じました。

極端なことをいうと、明日災害が起こって目の前から大切な人々を失ってしまう可能性だってあるわけです。
そう思った時に、「今」目の前にいる人たちが大切だと感じるなら、その人たちと共有する時間というのは心から大切にすべきだと感じました。

「遊び」ひとつにしても、集まってお酒を飲んで適当に過ごすこともできれば、「いかにその瞬間を楽しむか」をテーマに準備をして臨むことだってできるわけです。
つまるところ、無駄にしていい「今」はないんじゃないか、みたいな話です。

まとめ

自分の中に展開する毎分、毎秒に真剣に向き合って生きられるか。
こういうと修行っぽく感じられるかもしれませんけど、結果的にその行いは間違いなく自分に「充実」として返還されると思います。
それはその瞬間的な「今」にしても、総合的な「人生」としても。

目の前に広がる瞬間的な「今」と向き合うこと。
「Be here now」の精神が始点にして終点なのだと実感しています。
この記事が誰かの参考になれば幸いです。

それでは素敵な人生を。

-未分類