瞑想をしていて、あるときこんなことを思いました。
もし仮に、世界中の人が同じタイミングで目を閉じて、なにもしない時間があればそれはある意味で世界平和じゃないのかな?と。
瞑想をしていると、「私」という概念から解放される瞬間があります。
瞑想

わたしは一日の終わり、子どもの寝かしつけの最中に瞑想を始めます。
子どもの背中をトントンと叩いているとサッとその手を払われ「ママが」と言われます。
ショックを受け流しつつ、私は静かに瞑想を始めます。
胡坐をかいて、手をそっと左右に広げます。
なるべく心からリラックスをします。
警戒の気持ちを一気に解く。
静かに目を閉じて、ゆっくり深く息を吸いこみます。
吸い込んだ空気が内側からじわりと体を満たしていくような感覚がやってきて、静かに息を吐きだします。
厚く、固い「私」というフィルターを通して空気の入れ替えをします。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
私の体が呼吸の動きに合わせてかすかに動きます。
じっくり、ただじっくり呼吸をします。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
目を閉じているとだんだんと自分という存在が曖昧になってきます。
私

自分は今、どこに座っているんだっけ?
自分の周りには今何があったっけ?
自分
自分
自分
目を閉じて自分の奥深くまで潜っていくと、そこには「意識」があります。
この意識は一体誰の意識なんでしょうか…?
例えばたった一畳の部屋に私とあなたがいて、二人で目を閉じます。
体の奥深く、「私」の底へ潜っていき、奥深くに潜った先にあるその「意識」。
この意識は「私」のものなんでしょうか。
意識

自分の外殻を捨て去り
「意識」の単位に還った時、
「個」の概念が曖昧になる時があります。
そこには肌の色も、言語も、性別も、過去も未来も、善も悪もありません。
ただそこに「意識」が存在しているだけです。
この瞬間、私は家族の事も忘れています。
大好きな子どもたちのことも、大好きな妻の事も忘れています。
私は「私」であることを忘れています。
それまで「私」を構成していた「外殻」は今も呼吸という生命活動を行っているはずです。
さっきまで私を「私」と認識していたその「意識」は、「私」という概念から離れて、ただ内側へ広大に広がっていく闇と一体になります。
そこには肌の色も、言語も、性別も、過去も未来も、善も悪もありません。
ただ意識が存在するだけです。
全てを自分の内側に広がる暗い世界に明け渡して、どこまでも深く濃くなっていく暗闇と一つになれたとき、私の中に小さな涅槃がやってきます。
涅槃

ある意味では死と同義です。
私が「意識」に還っているとき、私は「私」であることを辞めています。
ただ、もし仮にこの世界の全員が手になにも持たず、ただ目を閉じて、ただそこにじっと座ることができたなら。
その時間だけでも世界は平和になるかもしれないな。と思いました。
世界平和のために何かをする必要はなくて、ただそこにじっとしていればいい。
強いて言うなら、自分が大切だと思う人を心に思い浮かべるだけでいい。
大切な人を想うだけでいい。
それ以外はなにもしなくていい。
ただ、そこにじっと座って大切な人を想う。
10分だけの世界平和

まあ、そう簡単な話では無いんですけどね。
世界は争いを続けます。
逆に今絶えようとしている命を必死に繋ぎとめようとしてくれている人だっています。
目を閉じて、ただじっと座るのもダメなのか。
世界は私が思っているより忙しいみたいです。
それならと、私は静かに目を閉じて考えます。
そして静かに息をします。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
私が「意識」に還って、「私」でなくなった時。
私の中に広がる宇宙が私の世界になります。
そこには肌の色も、言語も、性別も、過去も未来も、善も悪もありません。
ただそこに意識が存在するだけです。
瞑想をしていてたまにたどり着くことができる私の小さな涅槃です。
私の長いようで短い人生のうち、たった10分だけ訪れる小さな涅槃です。
まだ今は私だけの涅槃です。
それもたった10分だけの涅槃です。