みなさんこんにちは。
今回は精神探求についてお話していきたいと思います。
私は当たり前のようにその言葉を使っていますが「そもそも精神探求とはなんだ」みたいな話です。
なのでその説明の意味も兼ねて、この記事を書こうと思いました。
これは私の中で展開される精神探求の様子です。
思考の流れと発展の様子を見てもらえたらと思います。
人生ってなんだろう?

今回は人生について考えてみたいと思います。
「人生」って何なんでしょう?
みなさんは「人生」と聞いて何を思い浮かべますか?
なんとなく私の頭の中には「過去」で「記憶に残っているもの」という言葉が浮かんできました。
感覚的には良いものだけではなく悪いものも混じっているようです。
良い記憶と悪い記憶。
良い記憶ってイメージしやすいですよね。
楽しかった出来事とかそんなやつです。
でも悪い記憶ってどんなものでしょうか。
嫌な思い出とかそんなものだと思うんですが、私にとって嫌な思い出がどういう種類のものなのか探ってみようと思います。
嫌な記憶でいうと人になにかをされたとか、後悔とかそんなものが多いように思いました。
人に何かされたとかは、外的要因なのでとりあえず今はどうにもできないとして…
後悔の多くは自分を偽ったり、できるのにやらなかったりそんなことが多いのかな?とか。
「自分を偽ったり」と言いましたが、そもそも自分ってなんなんでしょう?
私は何を偽って、そして何を自分としているんでしょうか。
自分の定義というか、何をもってして私は自分を自分だと感じているのかが曖昧になってきました。
少し自分について掘り下げてみようと思います。
「自分」ってなんだろう…?

私はそもそも何をもってして「自分」の事を「自分」だと感じるんでしょうか。
なんとなくですが意思決定している主体みたいな言葉が浮かんできました。
自分を自分と感じているその主体が自分なのかな?と。
これはつまり私の体そのものを指すのではなくて、心の奥底で何かを感じたりしている「感覚の主」のことだと思います。
これを指して私は自分だと感じているんだと思います。
ここまでで何となく「自分」という存在の特定ができました。
形みたいなものは曖昧ですが、とにかく体の中?でいろんなことを主体的に感じ取っている感覚の主のことです。
「体の中で目の前に展開している世界から、あらゆる感覚器官を通して物事を感じ取っている存在」が自分です。
自分というのは物質的な体そのものではなく、その奥底で何かを感じている曖昧なナニカ。
これが「自分」で、本質的な「私」なんだと思います。
「私」は常にこの世界に展開するあらゆる現象を、目や鼻や耳や肌を通してメッセージを受け取っています。
そしてそのメッセージを受信して何かを感じ取っているのが「私」で「自分」です。
ここまで紐解いて、初めて自分に気が付いたような感覚になっています。
でも「私」はずっと前からそこにいて、常に何かを感じ続けていたんだと思います。
これまでは鏡に映る姿を指して「私」だと感じていましたが、鏡をみて何かを感じ取っている感覚の主体こそが「私」なんだと気づきました。
それは心とか精神とかそういう言葉で表現されているようなものなんだと思います。
世界からあらゆる情報を受け取って、何かを感じている感覚の主体が「私」。
私というのは、世界や「私」以外の要素を通して、初めて自分の存在に気付けるとも言い換えが出来そうです。
世界が存在しているから、私が存在する。
私が存在するから世界が存在する。
つまりは「世界」と「私」は一つで、常に同時に存在しているものだと言えそうです。
私は常に、この世界のあらゆる現象をメッセージとして受け取っている。
そしてそのメッセージを受け取ることで私は「私」を認識するわけです。
「私」へのメッセージ

世界は私の目の前に「その形」で現れます。
それは例えば、汚れた部屋とか、「死ね」という言葉とか、「愛してる」という言葉とか。
世界とはつまり私の目の前に現れる「あらゆる現象」のことです。
このあらゆる現象を受けて、私は日々いろんなことを感じます。
嬉しいとか、悲しいとか、切ないとかそんな感情のいろいろです。
私はこんな感情の発生源に興味がありました。
「この感情の発生源は一体どこにあるんだろう?」
わたしはいつもこんなことを考えて生きてきました。
恐らく人生の原則的な部分なのかな?と思います。
「この感情の発生源」について考えたとき、常にその最終地点には「私」がいました。
たとえば悲しみの発生源は私に対して「死ね」と言ってくる誰かではなく、「私」でした。
喜びだけでなく、悲しみの発生源にも「私」がいることに気が付いたんです。
悲しい現象を引き起こしているのは、私に対して何かをしてくる誰かではなくて「私」自身だったわけです。
私が「悲しい」と感じているから、その現象は悲しくなるわけです。
そう考えるとシンプルですよね。
世界は常に私に選択を迫ってきます。
イエス?ノー?する?しない?行く?行かない?会う?会わない?
私の感覚器官は目から入った情報をデータとして認識して、そこから「感情」という複雑で仕組みのわからないものを通して、その先にいる感覚の主である「私」にメッセージを送ってきます。
つまり目の前にある世界や情報を受け取ることでわたしは「私」を認識するわけなので、「世界」が「私」そのものとも言えるわけです。
私はこの世界から情報を受け取ることで「存在」する。
この世界は「私」の存在、そのものである。
たとえば今日人に「嫌い」と言われたとか、それとも「好き」と言われたとか。
または今日人に「好き」と言ったとか、それとも「嫌い」と言ったとか。
私が毎日の選択で作り出している私の目の前にある世界。
それが「私」で、その目の前にある世界の集合体が「人生」なんだと思いました。
ここまできて私は自分の目の前の世界について考えました。
今日、目の前の現実を今よりもっと良くしていこうと行動できただろうか…?
それとも「こんなものだ」と言って目の前の現実を適当にやり過ごしただろうか…?
私の毎分毎秒の選択で作り出している今が「私」の「人生」なわけです。
私の人生は、いま目の前にあるこの世界だけ。
他のだれのものでもありません。
私の目の前に展開している世界は私だけに独自のメッセージを送りつけ、私だけの世界として存在しています。
この世界に展開する、あらゆる情報を通して私は「幸せ」だとか「不幸」だとかを感じます。
何度も繰り返すようですが、私が感じる「目の前の世界」が「私」だということなんだと思います。
そう考えたときに、私が今するべきことが見えてくるように思いました。
たとえば「今日はもういいや。」であきらめてしまうことなのか。
それとも「もう少し頑張ってみよう」目の前の現実を今よりもっと良くすることなのか。
私、あるいはあなたの人生。
これは感覚の主体である「私」や「あなた」でしか作れないのかな?と思いました。
私こそがこの世界の主人公で、この物語の作者という見方ができそうです。
この物語の作者

私はある意味そういう想いと共に、このブログをはじめたのかもしれません。
私は今様々な感覚器官を通して、日々いろいろな情報を受け取っています。
毎日しんどかったり、辛かったり、悲しかったり、
なんとなく胸がドキドキしたり、まだ目の前にないちょっと先の時間にワクワクしたりしています。
それは「私」でしか感じ取れない超個人的で、神秘的でオリジナルなものだと知りました。
誰ともこの感覚を共有することはできない。
そして目の前の世界は私の人生で、「私」あるいは「あなた」が作り出している。
私が「今やるべきこと」はなんなんだろうか…?
私が心の底から「よかった」とか「幸せ」だと感じれるものや瞬間はいつなんだろうか…?
そんなことをよく考えます。
これはきっと自分にしかわからないものなんだと思います。
「私」というのが完全なオリジナルとして存在しているということは、「幸せ」の形も自分の中にしかない。
人はそれぞれオリジナルな幸せの形を持っているとも言えそうです。
生まれた環境も、関わってきた人も、過ごしてきた時間も全てが違う。
私の幸せは私だけのもので。
それは自分にしか知ることができないという話です。
ここまできて「幸せ」は自分が作りだした目の前の世界から感じ取るもので、自分でしか「幸せ」の形を知ることが出来ないんだいうことを知りました。
「幸せ」のカタチ

私は自分に向き合うことで「自分で幸せを定義して、自分にとっての幸せについて考えなければいけない」ことを知りました。
毎分毎秒の考えや行動が目の前に世界をつくりだしていく。
そして目の前の世界から「人生」や「自分」を感じるわけです。
もちろん人生には「不幸」も存在します。
しかしその不幸は幸せを知っているから感じ取れる感情だということにも気づきました。
つまり不幸を知っている時点で、過去の経験からそれと比較した幸せを知っているというわけです。
伝わるかはわかりませんが、心の奥底にひろがるあたたかくてやわらかくて愛おしくて悲しくなる「それ」です。
これが私にとっての「幸せ」です。
あなたは幸せと聞いて何を思い浮かべますか?
そしてその思い浮かべた幸せのために今日なにかできましたか?
毎日は選択の連続です。
そしてそれは常に繰り返されます。
諸行無常

究極のところ「今」目の前に「世界」を感じている私がいる限り、私と世界は輪廻転生を繰り返すのだと感じました。
そしてまた私の目の前に世界がやってきます。
私はこの世界のために今からなにをするか、そして何ができるのか。
私の目の前に広がる世界の作者は「私」です。
そしてあなたの目の前に広がる世界の作者は「あなた」です。
あなたがあなたの目の前の世界を作り出しています。
そして出来上がった世界からネガティブを感じるならそのネガティブの作者もあなたです。
あなたは目の前の世界からネガティブを取り除くためになにかできましたか?それともそれを見過ごしましたか?
正直なところ、どちらでも構いません。
正解というのはなく、間違いというものも存在しないと思っています。
そもそもは感覚主体である「あなた」あるいは「私」が「良い」か「悪い」かを判断しているだけなので、その現象の本質的な良し悪し、あるいは善悪を自分の中にしかない完全なオリジナルの感覚が判断しているという部分に立ち返った時に無くなるんです。
言い換えるなら自分自身がルールというような話です。
繰り返しますが、目の前の世界は「私」あるいは「あなた」が作っているわけです。
それを感じたときに、私は「目の前にある現実をよりよくするためにはどうしたらいいか」という考えを動作の基準にしようと思いました。
つまり私が心から「正しい」と感じる物事をするという行為が「私」そのものの肯定になるわけです。
本当の意味で自分の心に「それは正しいか」を問いただしたとき、「はい」か「いいえ」が出てくるはずです。
その選択が「私」あるいは「あなた」の作り出している世界です。
私がこの文章を通して伝えたいことがあります。
もしかすると「頭がおかしい」とか「変」とか言われるかもしれませんが、私は本心からそれを感じています。
「私」は「あなた」です。
そして「あなた」は「私」です。
私があなた、あるいは目の前の世界のためにできたことがこの人生のすべてで「私(人生の主体)」の意味になります。
目の前の世界に対して何ができたか、何を残せたか。
そして目の前の世界に自分自身が何を感じたか。
それが人生の意味になるんだと思います。
なのでもっと自分の事を探してみてほしいと思っています。
そしてもっとよく自分のことを知ってみてほしいです。
それがきっと人生の基準になります。
自分がどういう人間かわからないうちは、そもそも基準の外にいます。
まずは自分を知って基準を用意すること。
これが人生のスタート地点だと思います。
自分は何が好きで、何が嫌いで、だれが嫌いで、だれが好きで、どんな時に悲しくて、どんな時に切なくなったり愛おしくなったりするんでしょうか。
それは自分にしか感じられない完全オリジナルな特別な体験です。
自分にしか経験することができません。
そして目の前の世界を作り出しているのは自分自身です。
「あなた」はこの世界で「どうなりたい」ですか?
きっとそれがあなたの「理想」で、「理想」に対して行動できた今の自分が自分の世界です。
そこから何を感じましたか?「よくやっている」でしょうか?「また今日もサボってしまった」でしょうか。
でも安心してください。
正解も間違いもないんです。
ただそれを自分が感じただけです。
そしてそれが自分の世界の意味です。
「今」を生きる。

私がすべての人に伝えたいのが「今」を生きてほしいということです。
自分と向き合い、目の前の世界をよく見てほしいです。
大切な人は誰ですか?
好きな人は?
心の底から幸せを感じられる瞬間は?
なんとなく自分が今やるべきことが見えてきませんか?
これが私の「精神探求」です。
私はこれが好きでよくやっています。
今回は人生について考える精神探求の記録でした。
それではまた。