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人生に意味はない…?死後の世界から考える、自分の生きる意味について。

みなさんこんにちは。

今回はおそらく誰しもが感じたことのある疑問に向き合ってみたいと思います。
ずばり死後の世界について。
あくまで考察と考え方の一例なので、娯楽の一つとして読み進めてもらえると幸いです。

死ぬということ

withered flower
Photo by Essow K on Pexels.com

まずは死について考えていきたいと思います。
死ぬってなんなんでしょうね。
私なりの表現で行くと生命活動が停止されたとき。という感じでしょうか。
心肺停止とかが一つの基準とされていますよね。

ただ、心肺機能が停止しても脳は活動を続けているというパターンはどうでしょうか。
体はまったく動かないけど、意識や意志は通常通り機能している。
心肺機能の代わりを果たす機械なんかを使用することで、人格や記憶、意識や経験がこの世に残り続けるとしたら…?

私は悩んでしまいます。

上記は「例え」であって、実現可能かどうかは不明ですが、私は生死を区別するための基準として、意識の要素に重点を置いているようです。
ひとまず、生死の基準は人それぞれということで一旦置いておくとして、この世に存在する方法を失った状態を「死」として話を進めていくとします。

身体の機能は停止して、意識もこの世界から消えてしまう。
その後、私たちはどうなってしまうんでしょうか?

死後の世界

mountains with crepuscular ray
Photo by Min An on Pexels.com

私なりの答えとしては、人が寝ている状態に近いのかな?と思っています。
私が私であるという確かな感覚がなく、体などの実体や個を感じない状態なのかな、と。
ある意味では寝ている状態って、死ぬこととほぼ同義だと思っています。

大体の人は「死」が怖いと思っていますよね。
でも正確には、怖いのは「死」そのものではなくて、死に至る過程だと思っています。
例えばいつものように寝て、寝ている間に絶命させられたとしたら怖いもなにもないですよね。

でも意識がある状態で「これから死ぬ」という状況に直面したとき、それに伴うであろう痛みや、死後の世界、あるいは自我を構成するあらゆる要素(恋人や家族、友達などの人間関係や記憶)の喪失に恐怖するのだと思います。
つまり、人は想像によって恐怖するわけです。

例えば想像する主体となる意識や体が機能していない状況では、恐怖は生まれないということです。
(あくまで私の持論ですが)

でも、夢に対して恐怖することってありますよね。
悪夢というやつです。
「死に近い、眠りの状態になぜ恐怖が起こるんだ」という話になりそうですが、夢は意識が見ていると考えます。

夢を見ている状態というのは、脳が半覚醒している状態で、体は眠っている。
意識は恐怖を知っているので、悪夢を見たら「怖い!逃げたい!」と感じて、意識を体に戻す。
そんな流れなんじゃないかな?と思っています。
正確にはわからないですけどね、あくまで推測です。

私なりの推測では死後の世界は「無」。
深い眠りについて、夢すらも見ていないような状態。
そこには意識もなくて、私を構成するあらゆるものが分解されて消えてなくなる。

人は生と死を分ける線を跨ぐ前に、跨ぐことでどうなるかを想像して恐怖するのだと思います。

死んだら自分を定義するものがなにもなくなる。

そう思った時に「じゃあこの人生も意味ないんじゃないの?」という話になりますよね。
次は死を起点として生を考えてみようと思います。

人生は無意味?

man wearing the joker makeup
Photo by Jhefferson Santos on Pexels.com

人生の意味を考える時、どの視点で考えるかが重要になると思っています。
例えば宇宙規模で考えたら、人の人生は無意味だと思います。
別に私が死んだところで太陽の軌道が変わって、地球が灼熱にさらされるわけではないと思います。
(もしかしたらあり得るかもしれません)

でも、視点を人間単位まで持ってきたらそこに意味が生まれますよね。
今は仕事の帰りで、電車の中でこの文章を打っていますが、自宅に着く前に走行中の列車に飛び込んで私が死んだとしたら家族はきっと悲しんでくれると思います。
つまりはこれが私の人生の意味です。

私がこの世から消え去ることで波紋的に誰かの精神や生活に影響を与える。
そしてその与えうる影響を自分自身で実感する。
この実感こそが自分の生きた意味だと思います。

これは例えば自分が死んだ時に誰が泣いてくれるか、みたいな話に近いかもしれません。
別に自分が死んだときに誰かに泣いてもらうために生きるわけではないですが、自分の人生を通して積み上げてきた関係や、残した技術や影響なんかがその人の生きた意味になるのかな?と思います。

極端な話、何もない真っ白な世界があったとして、そこに自分1人だけが存在するとして、80年の時を経て死ぬとしたら、人生は無意味だと思います。
(そもそもそそんな状況では「自分」や「意味」という言葉や概念すら存在し得ないと思いますが)
とにかく人生の意味を考える上では「自分がこの世に存在した」という証を残すことが重要になりそうです。

生きた証

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Photo by Brett Sayles on Pexels.com

私は子育てをしていてよくこんなことを考えます。
「この子達に自分がなにを残してあげられるだろうか」
結局のところ、それが自分自身の生きた意味に繋がってくるのかな?と思います。

それは子育てだけに関わらず、今存在しているこの世界になにを残せるかみたいな話ですね。
結局のところ人は1人では自分が何であるかも認識することができません。
他者あるいは、身の回りの環境からくる反応を通して自分を認識します。
そう考えると、自分の命という資源を使って自分を構成する世界に何を残せるかが鍵になってくるだろう、という考え方です。

スティーブ・ジョブズはこの世にアップルを残しました。
iPhoneという形で1人一台のパーソナルコンピューターを持つことを日常にするという偉業を成し遂げましたよね。
これはきっとスティーブ・ジョブズの生きた証だと思います。

でも全員がスティーブ・ジョブズになる必要はなくて、自分が心からやりたいこと、そして自分がこの世界のためにできることを少しずつやっていくことが大事なのかな?と思います。

まとめ

人はあらゆる場面で意味を考える生き物だと思います。
それはすごく知的な活動で、他の生命体ではおそらく起こり得ない生理的反応だと思います。(推測ですが)

でも知的が故に苦しむ場面も多い。
「自分はなんのために生きているんだろう…?」とかですね。
きっとそれは自分自身の幸せのためだと思っています。

自分が心から長期的に幸せを感じるためにはどうすればいいのか。
答えは自分の一番近くにあるんじゃないかな?と思います。

自分の大切な人をどう扱うか。

今日をどう生きるか。

自分の命とどう向き合うか。

「死」から「生」の意味を理解しにいくという、逆説的なアプローチでしたが、こういう見方は結構好きです。
誰かの生きるヒントになれば嬉しいです。

それでは素敵な人生を。

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