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ヴィーガンという生き方は正しい…?間違っている…?「動物の命をどう考えるべきか」についての個人的な考え。

みなさんこんにちは。

最近SNSを見ていて「牛乳は世界一悲しい飲み物」とか「お肉を食べるな!」みたいな投稿が流れてきたのがきっかけでこの記事を書くに至りました。
最近いろんなところで「NO!肉食派」と「YES!肉食派」の論争を見かけます。
(個人的にはどちらの言い分も理解できるんですけどね。)

今回は肉食や動物の命をどう考えるかという部分についてのわたしなりの考えをお伝えできたらと思います。

あなたはお肉を食べますか?

grilled meat
Photo by pascal claivaz on Pexels.com

まず現状私はお肉を食べています。
そしてこれからもしばらくはお肉を食べると思います。

理由についてですが「現状、私が生きるために必要だと感じるから」ですね。

そうすると「お前が生きるために動物を殺してもええんかい!」みたいな話になると思います。
もちろんここについては「YES」と言い難い部分があります。

動物を殺すか殺さないかで話すと間違いなく殺さない方がいいです。これは言い切れる。
でも、その上でお肉を食べ続ける理由ってなんなんでしょうか?

なぜお肉を食べるのか

raw beef meat on white background
Photo by Markus Spiske on Pexels.com

まず「安価」「美味しい」そして「栄養がある」
個人的にはこれだけで食べる理由にはなっちゃいます。

なぜ安価なのかという部分を考えた時に、大量生産されているから。というのがあると思います。
どこのスーパーにいっても、鶏肉や豚肉や牛肉が消費しきれないほどに陳列されています。

人は昔から動物を捕って食べるということをやってきました。
(歴史の教科書とかにものってますよね)
そこには常に動物や自然との対峙があって「やるか、やられるか」みたいな世界だったのだと思います。

でも人は知恵を使って「食べる動物を自分たちで増やせば良くない?」になりました。
自分たちの管理下で動物を育てて、増やせたら比較的自由に食べられますよね。

そしてその延長線上が今。

食べるための動物を大量に生産して、安価で私たちの手元に運ばれるようになりました。
そしてそれがシステム化されています。

でもよく考えてみると「大量生産されている」って不思議ですよね。
お肉はもともと動物で、生きていたわけです。

人が食べるために大量の命を生産しているという状況。
今では日常的な光景になっていますけど、これって「あたりまえ」なんでしょうか?

命の大量生産、大量廃棄

female pig in pigsty in sunlight
Photo by Saraí Zuno on Pexels.com

最近?自分が食べているお肉について考えました。

もともと生きていたということや、今食べている動物にも家族がいて、こうやって自分の目の前に「お肉」として運ばれてくる前は幸せだったんだろうか?とかそんなことです。

「そんなこと考えるだけ無駄」とか思われるかもしれませんが、ある日自分の大切な人が目の前から連れ去られ、殺され、そしてその上その肉を食べ切ることもしないで、捨てているとなったらどうでしょうか。

私は「自分たちの種の命はこんなもんだ」と割り切れる自信がありませんでした。

そもそも連れ去られ、殺されるという部分だけでも納得はできないですけど、人間よりも強い種が現れて、抗うことができない状況になることは可能性としてゼロではないと思います。

今、人間は「強い種」として奪う立場にありますよね。
そしてその上で「倫理観を持ち合わせていて、身内が殺される悲しみも辛さも想像することができる種」だと思っています。

そういう「種」としての能力があるのであれば、せめて自分たちが「食べるため」に奪った命には、感謝して食べ切ることはすべきじゃないのかな?と思ったんですよね。

もちろんそれをしたことで、目の前に並ぶ牛や鶏の家族がそれを許すかと言われると全くそんな話にはならないわけですが。
せめて、最低限として。
目的を持って命を奪ったなら、感謝して食べ切ることは命を奪ったものの「責任」なのかな?とか思ったわけです。

肉食をどう考えるか

group of deer on forest
Photo by Katalin Fábián on Pexels.com

私個人的な意見で言うと肉食が悪だとは思いません。
ただ、不必要に殺して不必要に捨てる社会的システムは悪だと思います。

自分たちが人かどうかはともかく、命の上に命が成り立っている以上、「生」の足元には「死」がつきものだと思います。

動物同士も争い、お互いで食うか食われるかみたいな世界にいるわけなので、肉を食べるという行為そのものが完全な悪とは思いません。
だからヴィーガンが正しいとか、肉食が正しいとか、そんなことは個人の範囲内で個人が納得できる生き方をするのが良いのかな?と思いました。

ただ、お金のために過剰生産、過剰廃棄をする世の中は間違っている。

良くも悪くも、最近は物質的な豊かさが飽和状態にあると思っています。
人が生きるために必要な技術や文明は揃っているし、私はこれ以上お金基準で過剰になにかを生み出す必要がないのかな?と思っています。

命を奪う必要性

roasted chicken
Photo by Lukas on Pexels.com

結局のところ、今の世の中には必要以上にモノが溢れていると思っています。
それは食品についても、娯楽についても。

私が自分の子どもに、食事に関してよく言うのは「必要な分だけとってね」ということです。

なぜそれを子どもに伝えるのかと言うと、食事を通して「必要性」を学んでもらいたいという気持ちと、これからの世の中にはその感覚が必要になると思うからです。

人は植物や動物の命を奪って生きています。
「生きるために殺す。」
これは人間に限らず、生物が永久機関的なエネルギーを体内生成しない限り、必要な動きだと思います。

ただ、命を奪うのならそれを還元することができたらいいな、とも最近は思います。
人は想像することができて、工夫することができます。
動物の命を奪うことになるその日まで「いかに幸せに生きてもらうか」とか、配慮された環境を用意することもできます。

わたしなりの意見ですが「必要性の上で何ができるか」は考えていきたい。

それは環境のためであったり、動物のためであったり。
それがなければただ奪うだけになってしまう。

動物や自分自身の命を循環させるためにも「自分になにができるか」という考えは常に持っておきたいと思いました。

まとめ

最近の世の中を見ていると、「反省の時代」にはいっていると感じます。

技術の進歩を追い求め、他国間で金銭的な優位性を求めて争い、モノベースでの裕福さを追求するのが「今まで」でした。でも今までの価値基準を見直す局面に入っているとわたしは考えます。

モノがあれば幸せなのか。

食べ物を食べきれない分だけ生産して、溢れているという状況を続けることが幸せなのか。

「全にして一、一にして全」

こんな言葉がありますが、これが究極なんだと感じることがよくあります。

世界は「自分」であって、「自分」の集合が世界をつくる。
つまりは一人一人の意識が自発的に変化していけば、世界全体が変化していくという話です。

まずは私個人として、いろいろ考えて動いてみたいと思います。

それでは素敵な人生を。

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