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この「世界」とは一体なんなのか。人は認識の海を泳いでいるというお話。

みなさんこんにちは。

今回は私たちが生きているこの「世界」についてのお話をしていこうと思います。
みなさんは自分が生きている世界の本質について考えたことがありますか?

別にそんなことを考えなくても生きていけるわけなんですけど、知識や考え方の一つとして、そういうものを持っていると生き方にも影響が出ると思ったので、この世界について私が考えたことを共有してみようと思います。

この世界の本質

person holding world globe facing mountain
Photo by Porapak Apichodilok on Pexels.com

まずは「世界ってなんのこと?」というお話なんですが、みなさんの「目の前に広がっている世界」を指します。

それは例えば、家族や友だちや仕事や、ニュースやスマホの中で見るよその国のことや、見たこともあったこともない人の発言など。
自分の体を通して見たり知ったり感じたりしたことの集合体を「世界」としています。

そして、自分が知らないこと(認知の外)にあるものについては、自分の「世界」には含みません。
宇宙にはもしかすると「宇宙人」とされる生命体がいるかもしれませんけど、その存在を個人の人生の範囲で知ることがなければ、自分の日常や人生には関与しませんよね。

つまりは、「世界」は自分の知識や経験や感覚によって構成されているということが言えると思います。
みなさんの前には現象が広がっていて、その現象を自分の「感覚」によって判断しているというわけです。

世界の形は自分の認識が決めている

planet earth
Photo by Pixabay on Pexels.com

先ほども言ったように、基本的には人の目の前には現象があるだけです。
そして、それに意味や価値などを付与しているのが、それぞれの「個」という存在だと思っています。

これはどういうことかというと、目の前に「青色(晴れた日の空の色)」が存在するとします。
そして、日本人は共通認識としてそれを「青(あお)」と呼びますよね。

でも、外国ではそれを「blue(ブルー)」とも呼びますよね。
それ自体は「晴れた日の空の色」ですが、呼び方は国や育った環境や文化によって違うわけです。
私が知らないどこかの国ではそれを「赤(あか)」と呼ぶことも、可能性としては存在するということです。

これらを私たちは「認識(にんしき)」といいます。
「そこにあるもの」に対して、意味や音や価値を付与しているのは、人間だということが言えますよね。
(虫にとってはそれは「青」でも「赤」でもなんでもないという感じです。)

「人がそれを何と認めているのか」が「認識」になるわけなんですけど、個人が生きている世界は認識によって変化していくと思っています。
それは例えば、とある人を「良い人」とみるか「悪い人」とみるかも認識なわけですが、それって主観によって変化しますよね。
(私にとってはいい人だけど、あの人によってはわるい人。的な)

つまり何が言いたいのかと言うと、そのものの本質はともかく、人は世界を自分の知識や感覚に従ってつくり出しているということなんです。

その「認識」はどこからやってきたのか

brown field and blue sky
Photo by Pixabay on Pexels.com

私たちは大人になるにつれ、いろんなことを知りますよね。
モノの名前も、使い方もいろいろ知っています。

でもこれらは「そういうものだ、と思い込んでいるだけだ。」とも言えます。

学校教育で日本の歴史なんかも学びますけど、「それって本当のことなの?」みたいな感じです。
私たちは、その時代を生きてはいないわけで「誰かが言った事実とされているものごと」を、歴史として認識しているわけです。

インターネットが普及してから、情報の信頼性というのがとにかく危うくなってきたと思います。
一昔前は「テレビがいってるんだから、そうだよね。」みたいな常識があったと思いますが、最近になって「テレビでいってることって、嘘ばっかりじゃない?」という感覚になってきています。

その情報を流すか、流さないか。
どこを切り取って、どうやって見せるか。
一つの事実に対して、好意的に表現するか、敵意をもって表現するか。

すべては発信側の意図でコントロールすることができるわけです。

そう思うと怖いですよね。
「テレビで言っていることは正しい」みたいな価値観を持っていれば、その人たちを洗脳するためには、製作者側で都合よく内容をコントロールして、テレビで情報を流せばいいわけなので。

良くも悪くも今は情報の信頼性がはっきりしない時代だと思っています。
そんな中で私たちはなにを信じて生きるべきなんでしょうか。

世界を判断する基準

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Photo by Richard Štefún on Pexels.com

ここからは私の価値観のお話になるのですが、私は自分の五感と感覚だけはたしかに信じることが出来ると思っています。

それは例えば「これは美味しい」とか「この人はなんか嫌な感じがする」とかそんなことです。
自分の視覚や聴覚や経験や感覚は自分にとって本当に心地のいいものを知っているはずです。

でも、そんな感覚も「誰かがまとめた情報」になった途端、意味を成さなくなります。

ニュースを見て「これは良いことだ」と思ったとしても、そのニュース自体が悪意を持ってつくられたものなら「それ自体が本当に良いことなのかどうか」ってわからないですよね。

なので、本当のことを知りたければ、自分の体で、自分の頭で、直接的に情報を取りに行かないといけないと思っています。
そして「そこで感じた物事こそが、自分にとっての真実になる。」という考え方ですね。

今の時代なんでもネット環境で完結させることが出来ますよね。
SNS上で繋がっているだけで、なんとなくその人のことを知ったような気持ちになってしまいますが、そんなものは人を構成する一つの要素でしかありません。

そして、世の中で出回っているニュースも、誰かの認識を通した一つの情報にすぎません。
別に真実の中で生きないといけないとも思いませんが、自分が知らないうちに誰かにコントロールされて、自分の人生を生きられなくなるのは嫌ですよね。

まとめ

私たちは常に自分の認識によって世界を見ています。
そしてその認識は、もしかすると誰かのコントロールによってつくられたものかもしれません。

私はこれまで、教科書もテレビも新聞の情報も結構盲目的に信じてきました。
それも大人になるまで。約30年くらいずーっとですね。

スーパーで売っている食べ物は「スーパーで売られているのだから、安全だろう。」という考え方をしていました。
つまりは、日本国内で公式的に行われている物事について、疑いの目を向けてこなかったということです。

でも、最近になってその行動が間違っていたことに気が付きました。
これは言い換えれば「自分で調べもせず、誰が作ったかもわからないもの(情報)を鵜呑みにする。」というようなことだと思います。

例えば、今日道で初めて会った人に「スマホの電波は体に有害だよ。」とか言われても「何言うとんねんコイツ」と思いますよね。
でも、テレビのニュースは信じていたわけです。

見たこともあったことも無い人が作ったものなのに。
それがテレビで流れているからという理由で信じていたわけです。

極端にいえば、ニュースも他人が言っていることでしかないと思うんです。
その情報を出しているのが「企業」である以上、利益を鑑みて情報をコントロールすることもあると思います。

なので、「自分の目で見る」とか「自分の頭で考える」ということは、これからの時代特に大切になると思うんです。
それはきっと、自分の人生や自分の大切な人の人生を守ることにもつながると思うんです。

この記事が誰かの参考になれば幸いです。

それでは素敵な人生を。

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