みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今日は少し哲学的なテーマですが、「如(にょ)」という仏教の考え方をもとに、「心の安定」と「行動」のバランスについてお話ししたいと思います。
最近私が感じているのは、「受け容れる」と「動く」という二つの心の在り方を、どう折り合わせて生きるか、ということなんですよね。
「これでいい」と思えることの強さ

生きていると、思い通りにならないことばかりですよね。
仕事、人間関係、家族、健康…。
自分の力ではどうにもならない現実に直面することもあります。
そんなとき、仏教でいう「如(にょ)」という言葉が行動のヒントになります。
「如」とは、“あるがまま”という意味で、「いまこの瞬間の現実を、そのままに受け容れること」ということができます。
たとえ苦しみの中にあったとしても、「これでいい」と思える精神性を育てるというようなことで、最近の私のテーマにもなっています。
「動じない心」は、何も感じない心ではない

よく誤解されがちなのですが、「動じない心」とは、感情を持たないことではないんですよね。
怒りも、悲しみも、喜びも、すべて人間として生きる上での自然な心の動きだと思います。
だからこれを消し去ってしまうのではなくて、それに執着してしまうことを辞めるというイメージです。
たとえば、喜びに対して「ずっと続いてほしい」と願ったり、悲しみを「消し去ってしまいたい」と拒んだり。
そうやって感情を握りしめようとした瞬間に、心が乱れていくんですよね。
風が吹けば木が揺れるように、感情もただ「起こっては流れていくもの」として捉える。
ありのままの状態を観て、受け入れることが、「如」の実践です。
「受け容れること」と「行動」の折り合い

ここで疑問となるのが、「現状を受け容れるということは、苦しみに対して何もしないということ?」という部分です。
たとえば、身内が苦しめられていたら、「助けたい」と思いますよね。
私はそのような状況において「これでいい」とは思えませんし、それをただ受け容れることが正しいとは思いません。
如の体現によって、現実をそのままに観られるようになると「その時に本当に必要な行動」が見えてくるようになります。
それは「怒り」や「焦り」による行動ではなく、もっと静かで穏やかな「愛」を感じさせるものだと思っています。
他人の苦しみを自分事のように受け取って、その場に必要な動きをとる。
自分視点ではなく、誰かの苦しみに一致して、苦しみからの解放のためにできることをする。
仏教ではこれを「慈悲(じひ)」と呼びます。
如の体現が進むと、自分と相手の境界がなくなり、「ともに生きている」という感覚に変わっていくようですね。
(私はまだまだ利己的な人間ですが(笑))
「彼の立場ならどうしてほしいか」を感じる

先ほども軽く触れましたが「如」に生きるということは、対象と一体になることだと感じています。
相手の中に自分を見て、自分の中に相手を感じる。
「自分が彼の立場だったら、何をしてもらえると嬉しいだろう?」
そう考えることで、自然と行動が変わります。
そのときの自分は自分のために動いているわけではなく、本心から誰かのために動いている状態だと思います。それは「我」を超えた行動で、「如」が「慈悲」として現れた姿とも言えそうですよね。
行動は救うためではなく「共に在る」ために

如に基づいた行動というのは、「誰かを救おう」という意識から生まれるものでは無いと思っています。
むしろ「この世に共に在る」という自然な姿勢から生まれるものなのかな?と。
悲しみの中にいる人に、何か特別なことをしてあげなくても、そばにいて、心を寄せるだけで充分なこともあると思います。
大切なのは対象に一致しに行く心というか、その人の感情や状況を受け容れて共に在ろうとする心なんだと思います。
きっとそういう言動のひとつひとつが、自分の世界を変えていくきっかけになるんだろうなと思うんですよね。
まとめ
「如」とは、本質的なやさしさの体現でもあると思っています。
その場を受け容れるというか。
その場の調和のために動ける精神性なのかな、と。
全てはひとつの流れの中にあって、苦しみを受け容れながらも、調和のために行動する。
如を体現しようと思うと、なかなか難しいものではありますが、きっと快適に生きるためのヒントになると私は思っています。
私自身まだまだ修行?の中にありますが、日々の生活の中で、怒ったり、焦ったり、悲しんだりもしながら、それでも「これでいい」と受け入れられるような心を育てていけたらと思っています。
それでは、今回はこの辺で。