みなさんこんにちは、涅槃ぶろぐのモロです。
今回は「美とはなにか」というテーマについて考えてみたいと思います。
私たちは日常の中で、何かに対して「美しいな」とか「きれいだな」と感じる瞬間がありますよね。
でも、この“美しい”という感覚は、果たして何に由来しているのでしょうか?
そして、それは本質的なものなのでしょうか。
誰かの“美しさ”は、本当の美か?

たとえば「芸能人の誰誰が美しい」と感じることがあるかもしれません。
ですが、それは本当に“自分の感覚”から生まれた美しさなのでしょうか。
芸能人の美しさというのは、多くの場合メディアや社会が「これが美しい」と定義したものに影響されています。
言い換えるなら、私たちの感覚が外側から与えられた基準によって動かされているとも言えるんじゃないかな?と感じたんです。
美の本質は「想起」にある?

一方で、朝日を眺めて「美しい」と感じる人もいれば、虫が必死に鳴いている姿に心を打たれる人もいます。
それは芸能人の美しさと同じ種類のものなのでしょうか?
同じ「美しい」という言葉を使っていても、そこに含まれる意味はまったく違う気がします。
私は、美とは“想起性”に近いのではないかと思っているんですよね。
(もちろん一つの視点でしかないですが)
誰かを見て「芸能人のように美しい」と感じるのも、その人自身だけではなく、そこから想起される何かがあるからです。
朝日の光や花の姿を「美しい」と思うのも同じ。
それを見たときに、自分の中の何かと結びついて、発展的な感情を呼び起こすそのプロセスが「美」という感覚を生み出すのではないでしょうか。
だからこそ、美の感じ方には個人の経験や知識が大きく反映される。
想起できる“ストック”をどれだけ心の中に持っているかが、美を感じられるかどうかを左右するのだと思います。
美と教養

そう考えると、美というのはある意味「教養」にも近いのかもしれませんよね。
たとえば同じ景色を見ても、ある人は「ただの風景」としか思わないけれど、別の人は「人生の一瞬の輝き」として受け取るかもしれない。
その差は、その人がこれまでにどんな経験をし、どんな知識を吸収し、どんな視点を持っているかによって生まれるのではないでしょうか。
この世界から本当の意味で“美”を享受しようと思うなら、できるだけ多くの視点で物事を見て、考え、受け取ることが大切なのだと思います。
まとめ
美とは絶対的なものではなく、私たち一人ひとりの中に積み重なった経験や感性から生まれる相対的なもの。
その本質は“想起”にあり、そこに個人の教養や人生が深く関わっている。
だからこそ、美を感じる力を育てるには、ただ効率的に情報を消費するのではなく、実際に見て、触れて、考えて、自分の中に多くの「結びつき」を蓄えていくことが必要なのかもしれません。
みなさんにとって「美しい」とは、どんな瞬間に訪れる感覚でしょうか?
もしよかったら一度考えてみてください。
それではまた。